ピックアッププレイヤー 2025-vol.04 / MF6 山本悠樹選手
テキスト/隠岐 麻里奈 写真:大堀 優(オフィシャル)
ACLEファイナルズ初戦となった準々決勝に勝利し、クラブ史上初のベスト4進出を決めた試合で、
Player of the Matchに選ばれたのは、山本悠樹だった。
ACLEでの自分を信じられる実体験は、強烈な成長を促すことになった。
これまで、少しずつ積み上げてきた自信や自分らしさを表現するため、思考やメンタルなど目には見えないモノと向き合ってきた。
誰でもない、たったひとりの山本悠樹という存在なんだ。
そのことを考えながら突き詰めてきたから、サッカー選手としての今がある。
乗り越えた今だから
今の山本悠樹については、そのプレーを見れば雄弁で、説明の必要もないだろうと思えてくる。
ACLEでの経験は、それぐらいに本人にとってもそうだろうし、周囲からの見られ方もまた、変わるぐらいの出来事だっただろう。
だから、もしかしたら、「今」の山本悠樹が自身について語ることがあれば、いろいろな経験や葛藤も超越している状態かもしれないし、今から書く内容も上書きすべきこともあるのではないかとすら感じてしまう。
山本に話を聞いたのは、4月上旬から5月半ばにかけての時期だった。その間は、自分らしさや特徴を最大化しつつ、なおかつ恐れずチャレンジして成功体験を積み重ねていき、自分の考えと体験を擦り合わせていく過程を観ているような時間にもなったように思う。
最初にインタビューをしたのは4月に入ってすぐのこと。昨年の移籍してからの約1年についてから振り返ってもらった。
「昨年はしんどかった時期もありましたけど、移籍したこと自体は悔やんだことはありません。もちろんガンバでもいい時間を過ごさせてもらっていたなかで、選手のキャリアとして変化が必要なんじゃないかと思いました。とはいえ、もちろん移籍は悩んだし、僕は関西にずっといたので、関東が初めてで、知り合いもいなかったのでどうしようかと。奥さんは、僕の考えを尊重して『いいんじゃない』と言ってくれました。
いろいろ考えて、『挑戦できる人でありたい』と思って決断しました。当然うまくいかないこともあるだろうと思っていましたが、それをはるかに超えるぐらいうまくいかないこともありましたけど、自分で選んだ道だろって思いながら過ごしていました。
結果的には昨年の終わりぐらいに出られるようになりましたけど、新しい環境でサッカーをすることは素晴らしいというか、よく決断できたなって思います」
山本が初めてフロンターレの一員として等々力でプレーしたのは、2024年2月20日ACLラウンド16第2戦の山東泰山戦のこと。
観ている多くの人にインパクトを残した一方で、敗戦してしまう。個人としてのプレーには手応えがありながらも、前年からつないできた選手たちに申し訳ないと矛盾する気持ちを話していたことが当時も印象に残った。
「最初からはなかなか出られないかなと感じていたなかで、キャンプでの、ある練習試合で評価が変わって(ラウンド16第1戦アウェイの山東泰山戦で)スタメンで出ることになったんです。こうやってスタメンを“獲る”という懐かしい感覚もあり、それが楽しくも感じられました。
アウェイに出た後、第2戦は等々力デビューという緊張感もあるなかで、あのポジション(インサイドハーフ)で久々にやり、自分でも久々にいいパフォーマンスをしたんじゃないかなっていうぐらいによかったんです。それでも勝てなかったので、もどかしさがありました。なんだか3年前ぐらいの感じがしますね」と山本は苦笑した。
「でも、今思えばですけど、あのままうまくいかない方がよかったんだろうなとも思います。既存の中に入っていくわけで、やり方が染み込んでいる選手たちに比べて、最初はタイミングがうまくいかないことも多かったと思います。
2024年は、守備に関しては、より個人に行き奪い切るという球際の部分が求められていたし、攻撃も守備もこれまでとのやり方の違いには驚きもありました。そこを自分でも取り組みながら、半年以上やって積み上がってくると、守備の部分でも多少の余裕もできてきて、攻撃に割ける脳や考える部分も多くなっていったところはあったと思います」
リーグ戦で山本が2度目のフル出場をしたのは9月27日J1第32節アルビレックス新潟戦のことで、それは3月9日J1第3節京都サンガF.C.戦以来のことだった。
なかなか試合に絡めなかった時期のことを「過ぎちゃえば、あの時ああだったなって思えるんですよ。僕はまだ若いし、若いときに何でも挑戦するものだなって思います」と、笑顔で言う山本を見て、乗り越えているんだなとホッとした。
「はい、今はもうそんな感じですね。想定したよりはしんどかったですよ。すぐ出られないだろうなとか選手がこれだけいるのも分かっていたし、それでもこんなにも出られないかと思ったこともあるし、若干ですが自分のパフォーマンスが少し悪くなっていった感覚もあったので、しょうがないかなという想いもありました。ただ、そこからどうやってチームのやり方があるなかで、自分の良さを示すかを考えたし、試行錯誤しながらやっていました。
メンタル面は、難しかったですね。連戦だったら出るかな。今日の練習ではよかったから出るかな。そういう期待を自分がしてダメだったときのダメージがキツイから、メンタルが揺さぶられないように、そういう考えを可能な限りなくそうとしていました。他の人がどう、じゃなくて、自分がもう少しできることがあるだろっていう方向に。でも…」
と、この話には続きがある。
「その時は自分が一番きついと思っちゃうんですよ。でも、絶対そんなことないし、きついなって思っている時間があるならやるべきことがあるし。絶対に僕よりきつい選手もいると思うんです。振り返ってみれば、たった半年ぐらいのことじゃないですか。だからそのときはきつかったけど、振り返ればたいしたことがなかったじゃんっていつも思うんです。ガンバのときも、もう終わりかなって思うこともあったけど、振り返ればたったこれだけじゃんって。またそういうときが来たらしんどいんでしょうけど、そうなっても頑張るしかないんですよ」
アルビレックス新潟戦で久しぶりにフル出場をした当時、山本が「あまり面と向かって言うことはないですが、感謝しています」と名前を挙げたチームメイトが瀬川祐輔だった。
「あの人なりに苦しんでいると思うので。でも、楽しそうにいてくれるのはすごく助かりましたし、いい感じの距離感で声をかけてくれたなと思っています」と、ミックスゾーンで記者たちからの質問に答えていた。
月日は経ち、2025年5月18日J1第17節セレッソ大阪戦。エリソンの1点目は、瀬川の「練習してきた成果が感じられた無意識で出せたトラップ」から生まれた。山本が後方から一目散に走ってきて満面の笑みで瀬川の背中に飛びついたとき、そのことが思い起こされた。
「(背中に乗ったのが)お前か、と僕も思いました。その後、2回ぐらい肩をハグしてきたし、そうやって悠樹も思ってくれているのかな。僕も悠樹が今、活躍していることはうれしい」と瀬川は話していた。
自分に矢印を向けること
これまでも大なり小なり、乗り越える経験はしてきた。その支えとなったのは大学(関西学院大学)時代に学んできた考え方も礎になっているという。
「今思うと特殊な大学だったと思うんですけど、サッカーのことと人間的成長を頻繁に言われ考えてきた大学時代でした。人のせいにしたり、環境のせいにもできてしまいそうになっても、どこかでそのことが引っかかるというか。結局自分がやれる範囲のことしかできないし、簡単に人を変えることはできないから、自分自身を変え続けるしかない。頭ではわかっていても、必死にそっちにいきそうになるのを戻すんです。プロに入ってからもその考えは自分の中にありました」
山本がガンバ大阪でプロキャリアをスタートしたのは、2020シーズンのこと。
9月5日J1リーグ第14節ベガルタ仙台戦でJ1初スタメンの座を掴むと、なんとその試合でプロ入り初ゴールを決めるというインパクトを残し、チームも4対1で勝利した。
「あの時も、確か前日ぐらいにケガ人が出た影響で、突然自分が入ることになったんです。当時、智さん(山口智ヘッドコーチ=当時)がいて、僕と黒川(圭介)に、『お前らが、もっとやっていかないと。お前らできるやろ。いつ出番が来るかもしれないから準備を怠るなよ』って言われていました。あんまり出てなかったから何をしていいか分からなかったけど、みんながしていないことをやろうと思って練習が終わってから、ケガしたら終わりだなと思って筋トレとか、とくにストレッチを、こそこそひとりでやっていました」
その後ガンバ大阪は勝ち星を重ねていき、結果的には首位を独走していたフロンターレを追う形でリーグ戦で2位まで浮上した。
「それは運があるなと思いました。自分の得意な部分がそんなに出ていたわけではないとは思います。でも、(井手口)陽介くんが(ボランチの)相方で、陽介くんは自由に動いているのが一番いいと思ったし、その良さを活かした方がチームとしてもいい方向に行くと思ったので、俯瞰で見て、危ないところだけしめる感じで守備はしていました」
それ以降のシーズンも、監督が交代すればまた新たなスタートとなり、試合に出る信頼を得るための時間も必要なこともあったし、3年目には膝のケガによるリハビリ期間もあった。そういうなかで「いろんな監督のいろんな考えに触れることもできたし、試合にも出て、いい経験を積むことができました」と振り返る。
ガンバ大阪での4年目には、副キャプテンに就任した。
そこで、後述する幼少期時代の恩師と並ぶ大きな存在となったスペイン人のダニエル・ポヤトス監督との出会いがあった。
それまでの3年間で、課題としていた守備や走力なども身につけ高める時間もあったなかで、自分の感性や感覚が合い、サッカーを教えてもらった人なのだという。
「ダニからは、例えば体の向きが今こうだから、とか、サポートに行くということひとつとっても、寄っていくことだけがサポートじゃないよ、とか、サッカーを教えてくれましたし、すごくサッカー観が広がりました。技術的なところは信頼を置いてくれていたと思うので、それ以前のボールがないところでの見るところや動きなどを教えてもらいました」
それは、「一気に視野が広がる」程のインパクトがあったという。
「いつ、どこで、何を見て、どのタイミングで動いてとか、最初から全部が分かったわけではないですけど、何回かトライしてみると、こんなに違うんだと感じられました」
ガンバ大阪での4年間は、充実した時間を過ごすことができていた。住み慣れた場所や人から離れることは、とても勇気が必要だったが、新しいチャレンジをすることを決断した。
「キャリアのスタートがガンバ大阪でよかったなと思いますし、今でも感謝しかないです。4年間を通じて、うまくいったことばかりではなかったですし、自分が苦手なことや足りていないこと、結果が出ないことに対しても向き合って苦しんだ時間もありました。そこで踏ん張った時間が、すごく今に生きているなと月日が経っても改めて感じられますし、そういう経験をさせてもらえたことはすごくありがたかったと思います。ファン、サポーター含めて素晴らしい選手たちと一緒に戦うことができましたし、今でもつきあいがある人たちもいるし、そういうことも含めて素晴らしいクラブでプレーできたことは選手としてうれしいことだなと思っています」
自分らしさとは何か
2024シーズン途中、「ぴんぴんに糸が張りつめていたメンタル」だった頃、狩野健太コーチ(当時)の存在にも救われたという。
「昨年は、健太さんがいてくれたことが大きかったですね。きっと同じような苦しみ方をしてきたんだろうなとなんとなく分かるアプローチをしてくれたというか。だから、しゃべりやすかったですし、気持ちのガス抜きをしてくれていたと思います」
狩野健太は、選手として2016、2017シーズンにフロンターレに在籍。指導者としてもフロンターレのスクールコーチ、アカデミーコーチを経て、2024シーズンはトップチームのコーチを務めた。
2025シーズン、フロンターレU-15生田コーチに就任した狩野に話を聞くため、Anker フロンタウン生田に行った。
「僕もそうでしたけど、悠樹に限らず、フロンターレに移籍してきた選手は、前提として勝たなければいけないクラブだし、上手さとかフロンターレらしさがあるなかで、そこに合わせようとしてもがく時間があるんですよね。僕も最初はあんまり迷わず自分のプレーができていたんですけど、試合が始まると、迷いながらやってしまう部分も出てきて、そうすると自分の良さが出づらくなるタイミングがあったりする。悠樹は、賢いから整理することもできていたので、そういうなかで、ちょっとプレーが遅くなったり、ミスが出たりとかすることもある。自分もそういう経験もしたので、わかるところもあって、話を聞いたり、経験を伝えたり、ちょっとでも手助けできたらいいなと思って接していました」(狩野)
アルビレックス新潟戦で久しぶりにフル出場をすると、そこからシーズン終盤にかけて、山本は出場時間を伸ばしていきながら、FKでゴールを決めるなど、存在感を増していった。実際に、自信をもってやろうと思えるようになっていたという。
「悠樹は、できるからこそ、ちゃんと準備をした方がいい。してくれていると思うけど、それをやめない方がいいよ」と狩野から言われたことも心に残っていた。
狩野は、そういう山本を見て、「掴んでくれた感じはしました。でも、それは元々ないとできないことですし、悠樹の実力ですよ。そう思ったとしても、実力がなかったらできないわけじゃないですか。だから彼が持っているものがあるという大前提のなかで、僕は気持ちのちょっとしたところとか話を少ししたぐらいですよ」と柔和な表情で語った。
2024シーズンが終わり、チーム解散式では、鬼木達前監督からこんな声をかけられたという。
「出られないこともあったけど、腐らずやってくれてよかったってオニさんが言ってくれたんですよね。オニさんは、それまでにも、ずっとちゃんとやっていることは選手として素晴らしいってことも話してくれてはいたので。自分ではやるべきことにフォーカスするって思っていましたし、しんどい顔を人に見せたくなかったけど、出ちゃってないかなって思うことも正直ありました。でも、解散式でオニさんがそう言ってくれて、そう見えていたんだなってわかったし、それは大事なことだなって改めて思いました」
山本悠樹は、「自分自身とは何か」ということを、ずっと模索してきた選手のように感じる。比較されることがあっても、自分らしさを見失わないようにという葛藤のようなものを感じるところがあった。
「そうですね。ガンバではヤット(遠藤保仁)さん、フロンターレではケンゴさんやリョウタさんですかね。選手としては俺はもっとできるぞ、とかみんなに勝てるぞって思っている一面もあるんですけど、やっぱりそう思うと、どうしても、ヤットさんぽいこと、ケンゴさんぽいことを意識してしまって、そうするとプレーがおかしくなってくるんですよ。例えば、リョウタさんだったらこの狭いエリアで2、3人かわすなとか思って得意でもないのにやろうとしてしまったり。それで、相手に取られたら気持ちも沈むじゃないですか。でも、冷静に考えたら無理なんですよ。素晴らしい選手たちなんで。言い方は難しいですけど、僕はああはなれないと基本的に思っています。でも、俺はこっちで勝負できるよって思ってやっていかないと、自分のカタチがおかしくなっちゃう気がするんです。ヤットさん、ケンゴさん、リョウタさん、みんなすごいな。僕にはないものをみんな持っているけど、僕のプレーは僕にしかないよなって感覚で過ごすというか。だから比較しないで、『俺も、十分すごくね?』って笑って言えるメンタルじゃないとやっていけないというか」
そういう考え方に立ち返ることができた。
山本は、「存在感がある」選手だと表現されることが多い。
「その存在感っていうのは、すごい言われてきたことだし、大事にしています。難しいことをわざわざしなくてもいいし、難しいことを簡単にできることも自分の良さになることもある。かといって全部難しいことをしなくてもいいし、やっぱり自信に満ちてプレーしているときが一番いいかなと思います。根拠があってもなくても、自信をもってやれればある程度いいプレーができている感覚もあるから、その自信を失わないためにちゃんと日々練習してるって感じですね。練習でこんなことができるんだから、試合でもできるっしょって。あぁ、そんな感じですね」
と言って、改めて自分の気づきを整理した。
「いま自分でしゃべってて思いました。自信をつけるための練習なんだって。自分がメンタルが弱い部分もあるとわかっているからこそ、そこにフォーカスしています。自信をもってやる。そのための作業がすごく大変であり大事なんです。みんなはどうしているのか知りたいぐらいです」
では、山本悠樹らしいプレーとは、自分では何だと思うか? と聞いてみた。
「何だろう。でも、昔からずっと、『いやらしいプレーをするね』って言われてきました。ボール保持でも非保持でも、『そこに立つ?』ってところに立っていたり、相手がターンしてほしくないところでターンをするとか。そういうのって相手が見えているプラス心も余裕がある状態だと思うんですよね。そこから得点やアシストまでついてくると、状態がいいなって自分でも思います」
プレー選択の決断
その話を聞いてから1週間後の4月12日、アウェイ清水エスパルス戦でのこと。
高井からの縦パスを受けた山本がダイレクトで展開し、河原、マルシーニョとつなぎ、駆け上がった左サイドの三浦へ。ボックス内へ走り込んでいた山本が三浦からの折り返しをダイレクトで押し込んでゴールを決めたシーンがあった。
翌日に話を聞くと、そのプレーには積み重ねてきたものや、メンタル面など、あらゆるものが詰まったシーンのようだった。
「久しぶりの感覚でした。まず、このところゴール前まで入っていくところは、とくに意識的にやろうとしてきたことだったので、前半から何回か入っていけていたので、入っていくとボールが来るなと思っていました。つなぎとか作りを意識してやるなかで、それぞれの個性や癖もあり、それを踏まえて最後のところに僕の位置からでも入っていけば、ボールが来ることがあるし、切り替えのところからそこまで入っていけるのは僕の良さでもあるので」
狩野が山本と接するなかで、驚いたことがあったという話を教えてくれたことに遡る。
「サブ組でプレーしていたときに、チーム全体のバランスのことを考える発言をしていたんですよね。この選手がこういう状態でプレーしているからカバーしてあげないといけないとか。お前すごいなって僕は驚いたんですよ。だって、普通に考えたら自分が試合に出るためにアピールすることを考えるじゃないですか。まだ20代半ばぐらいで、そこまで考えてるんだなって」
そのことを山本にも聞いてみた。
「覚えています。僕は、それが当たり前だと思っていたし、本当にそう思ったんですよ。例えば、もしかしたらボールを取られるかもしれないと気づいてたら高い位置を自分があえて取らないとか。チームスポーツだから、そういう観点からサッカーを考えることがけっこう多かったんです。だから、チーム全体のバランスを見て、どこが穴かを見つけるのは僕めっちゃ速いと思います。健太さんに、『そこまで考えなくて、もっと自分のやりたいことをやっていいんだよ』って言われて。そっか。もっと、いい意味で適当でいいんだって思えたんです。これまで、あんまりそういうことを人から言われたことがなかったんです」
おそらく山本自身も、頭のなかにあるプレーの選択の理由を人に言わずに必要だと思ってやってきたのだろう。
「そうですね。健太さんがしゃべっていいよという感じだったから話したんですけど、もっとわがままにやっていいんだ。あぁ、確かにそうやなぁって。それまであまり背負わなくていいものまで背負っていたというか、なんか解放されて楽になったんですよ」
それは、山本のなかで転機となった。
例えば、バランスも含めて2手3手先まで考えた結果、やめておこうというプレー選択をすることがある。それは山本の心や思考のなかで起きていることだから、一見すると結果的にも何も起きなかった現象に見えてしまうこともあるかもしれない。
だが、サッカーはひとりでやるスポーツではない。いい意味で自分のわがままは、チームメイトを信じる気持ちとも表裏一体となって、個人もチームも利益が一致して、成功体験に導けることがあれば、それが勝利にも直結することもある。
話は、清水エスパルス戦のゴールの話に戻って行った。
「だから、得点の話に戻るんですけど、前に入っていこうとすごく思ったのも、攻撃的な選手を追い越して、もし僕が前に行くとなると、攻撃としては厚みが増すんですけど、バランスでいうと、攻撃の選手が取られた時に、どこまで切り替えてくれるかは不確定要素があって、もしそれで切り替えられなかった時に、自分が前に行ってる分スペースを空けているから相当リスクをかけている状態だなというのが自分の中にあるんです。もし切り替えようとしてくれても疲れていて遅れたら、自分が抜けているから一気にピンチになるわけじゃないですか。だから行かない方がいいかなと思っていた部分がけっこうありました。バランス優先だとそうなる。
でも、自分のやりたいこととすれば、入っていきたいし、点も取りたい。そのせめぎ合いというか。それで、そういうこともわかった上で、入っていこうと思ったんです。ここ数試合で、とくに。
それで、清水戦ですぐに点が取れたから、入っていいんだって。その感覚がすごく今ありますね」
チームで結果を出しながら、やりたいことを実現させるためには、周りを信じて、自分自身の力も最大限に発揮する。そのバランスのレベルを上げていきながら、安全地帯にいるのではなく、チャレンジもする。そのことが、自分らしさを出すことにつながっている。
そういう感覚を掴めてきた、ということなのだろう。
「昨年ぐらいから、バランスと自分の意志のところのせめぎ合いで、自分の意志が勝つことが増えてきました。最悪、自分が戻ればいいや、というか。それに、後ろにいるチームメイトを信じて、止めてくれるだろうとか、戻ってる間にやられる状態まではいかないだろうとか経験と信頼とで、自分が(前に)行きやすくなっているんですよね」
狩野が話していたことを思い出した。
「悠樹は、自分よりチームが大事っていう感覚を持っている選手ですごいなと思ったんですよ。チームがうまく回るために、自分が今何をしなきゃいけないのかをちゃんと捉えて実行できる技術もありますしね。試合の流れを見ながらプレーを選んでいる印象があって、技術はもちろん高いし、立つ場所とか選ぶプレーもちゃんと考えているのが伝わってきます。頭使いながらやっているんだなぁと分かりますしね。
それこそケンゴさんとか(中村)俊輔さんは、ゲームをコントロールしながらゴールを取ってゲームを決めちゃうスーパーな選手で、それ(ゲームメイク)をしながら、ゴールに絡む仕事も今後は求められてくるかもしれないねって話は悠樹とちょっとしたのかな。でも、それも秋に試合に出るようになって、すぐやっていましたよね。
結局は悠樹の実力ですよ。やろうと思っていても実力がなかったり準備をしてなかったらできないわけじゃないですか。僕も経験しましたけど、悩んだり体感したりしないと分からないこともある。悠樹も半年ぐらい苦労して自分なりに手探りをして、多分もがかないといけない部分はあっただろうと思います。彼がもがいた半年間は、今後のサッカー人生に絶対活きてくると僕は思います。
もちろんうまくいくのが一番いいに決まっているんですけど、そういうことも乗り越えながら、選手として深みみたいなものも出てくるんじゃないでしょうか。
悠樹は、まだまだもっとできるでしょうし、フロンターレを引っ張っていく存在になってほしい。その先には日本代表もあるだろうし、そこは貪欲に、自分の利益がチームの利益にもつながっていると思うので、そういう選手を目指してほしいと思っています」
たくさん考えて、トライ&エラーを繰り返しながら、それまでは受け身でバランスをとっていたのが、能動的に動くことでバランスを取るという積極的なチョイスへと変化していったのだろう。
「こうなるかもしれないから、自分は3つ先を読んでそこから動かないっていうところから、まず1個行ってみて、それに対して起きた現象に対して周りを動かしながら自分の動きを変えていく」
その変化は、とても大きな変革のようにも思える。
「大きいです。だから、前にめっちゃ入っていけるようになりました。それで、見えているところに自分の体を持っていけるようになったというか。もっと言うと、前から見えていたんですけど、いろいろ考えると、そこに行くまでは遠いなぁとめちゃめちゃ感じてたんですよね」
「見え方」について、自分の考えの答え合わせがしたくなった時に、中村憲剛に聞きに行くこともあるという。
「自分はこう思うんですけどって聞いて、ケンゴさんから『俺も同じことを思う』って言われたことがあって、あ、そうかって。そういうことをケンゴさんから聞けるのはありがたいです。後は、ケンゴさんにも備わっていたように、そこから点が取れるように自分を持って行く力は、これからの僕に必要になっていくのかなと自分では思っています」
それが、サウジアラビア遠征に行く前に聞いた話だった。
シャビに憧れて
滋賀県野洲市で生まれ育った山本悠樹は、友人たちの影響で5歳からサッカーを始めた。自宅から15分ほどのところにある小学校に通っており、放課後にボールを持って学校に行けば誰かしら友だちがいた。サッカークラブでの時間以外にも、小学校や河川敷など広い場所でサッカーが楽しめる環境が故郷の野洲にはあった。ただただ、楽しかった。
自転車で河川敷まで行ってサッカーをし、帰る途中に小学校があったから、そこでも寄り道をして、ひとりサッカーボールを蹴ってから家に帰ることもあった。
シャビが好きだった山本は、シャビの自伝に書いてあった幼少期のエピソードにも影響を受けたという。ちなみに、父は、自身は陸上経験者だったが、山本がサッカーをやるようになると、雑誌や本などで自分も調べるようになり、気づけば山本が入っていたクラブでボランティアでコーチをするようになった。
3歳年下の弟とは、ずっと仲が良く、弟は山本を追いかけるようにサッカーを始め、中学時代はJクラブのジュニアユースに所属していた。「プレースタイルも似ていたと思います。小さい頃は弟の方が上手かったんじゃないですかね。弟って兄の影響を受けられるから、ずるいっすよね」と笑った。
そんなわけで、シャビの自伝もおそらく父に買ってもらったのだろう。
「シャビが壁当てしてトラップする練習をずっとしていたらしく、うますぎて壁当てした場所だけが真っ白になったっていうエピソードがあったんです。それで、僕もやろうって。シャビほどではないですけどね」
その光景は、今でもハッキリと脳裏に焼きついている。
「ちょうど小学校が建て直して新しくなって、入ってすぐにコンクリートがあって、そこに木がたくさんありました。たしか、桜だったかな? その横のグラウンドは、照明がなくて真っ暗だったんです。だからグラウンドでは何もできなかったんですけど、コンクリートのところは出入口付近だったから明かりで照らされている場所があった。そんなに広くはなかったけど、ある時、見つけて『いいやん、ここ』って」
高さ50cmぐらいの壁に向かって、ひとり何度も狙った場所にボールを蹴って、止める。それをひたすら繰り返した。
映像を観ているように解像度が高い景色と、まだ練習と思わずにボールを蹴っていたその姿は、山本悠樹の原風景にも思えた。
「小さい頃は、団子サッカーで、僕は、それを後ろから見ていて、ボールがこぼれてきたら拾って、ゴールを決めるという感じだった」というのも山本らしい。
小学4年生で入った野洲JFCと中学2年から在籍したFC湖東で指導してもらった野崎源市代表は、山本にとっての恩師である。
山本が5年生の頃から、野崎はバルセロナのサッカーを取り入れ、山本たちへの指導やアドバイスにも反映するようになっていた。それが、後の山本につながる決定的な要素になった。
「彼は身体が華奢で、当たり負ける面もあったので、ポジション取りを考えてフィジカルコンタクトをする場面を意図的に作らず、フリーでもらうことなどをアドバイスしていました」
「考えてプレーをしないと生き残れなかった」という山本は、「小さくてもサッカーはできるし、技術を身につけることや大きい相手には、当たられる前に自分のプレーが完結していればいい」ということを野崎からのアドバイスもあり、身につけていった。
とはいえ、そのことで悔しい思いも経験してきた。Jクラブのアカデミーのセレクションは、ジュニアユース、ユースのタイミングで何度か受けたが、いつも最終まで残って、結果的に受からなかった。
「落選理由がフィジカルとか身体能力のことだったから、やっぱりその悔しさが根底にありますよね。見てろよって」と苦笑してから、山本らしい言い方に変換した。
「だから、その後のサッカー人生で、意識せざるを得なかった」
悔しさの先には、そういう自分でも、技術やゲームをコントロールする力、視野の広さを養えば、プロ選手になれるというポジティブな面に捉え方を変えていった。
「悠樹は、“こっち側”の人間だからね」と、中村憲剛がひとことで表していたことがあったが、成長過程でフィジカルの壁にぶつかりながらも、それを受け入れてどうすべきか考えられる力は、その選手の未来につながる大きなスキルであると言えるだろう。
「(野崎)代表が、フィジカルで何とかしろという考え方の指導者ではなかったし、そこで勝負しないためには、もっとできることがあるだろうって言う方だったので、僕にはすごく腑に落ちたんですね」(山本)
野崎の記憶に残っている山本の姿からも、そのことがよくわかる。
「彼は、勉強もできて賢い子だったので、意図がわかると、すぐに自分に取り入れていました。何でも聞くというより、自分に必要かどうか判断して考える力を子どもながらに持っていました。これまで見てきた選手で何人かJリーガーになりましたが、山本は、とにかく上手くて、ミスが極端に少なく、周りの選手がやりやすかったと思いますし、戦術理解度も高かったので、相手チームの特徴を伝えれば、それをすぐに理解してプレーに反映していました。
技術的な巧さもそうですが、状況判断ができ、ポジション取りも掴みどころがないので、ボールを取られない。守備に関しても、自分がガツガツいくタイプではなかったので、寄せていき、次の選手に詰めさせて誘導をしていくようなディフェンスをしていました。また何よりトラップが抜群にうまかったですね。
印象的だったのは、強い相手と対戦する時でも、『やってみないとわからない』と先入観で強いから勝てないと決めつけずに、客観視していることに驚いたことも覚えています」
野崎が最も印象深い試合は、山本が中学3年のときの高円宮杯県予選決勝セゾンFC戦のこと。前半1対4で負けていたなか、後半は圧倒的な山本悠樹の活躍で5対4で逆転勝利をおさめたという。
「あれは、本当にすごかった」と野崎の脳裏には鮮明に残っているが、山本本人は、「あんまり覚えていない(笑)」のだという。「でも、逆転して勝ったなっていうことはなんとなく覚えています」
思考能力
子どもの頃から勉強に困ったことはなかったし、「嫌いじゃなかった」という山本は、文字通り、文武両道を実践してきた。
小学生の頃は、学校が終わると、公文に行き、速攻で問題を解き終えて、サッカーに急いで向かうという日もあった。
高校は県立草津東高校に進学したが、滋賀県選抜で一緒だったチームメイトたちの多くが進路先に選んでいたのと同じように、山本にも体育科への推薦の話があった。だが、母から「一回ぐらい、受験してみたら?」と言われたこともあり、一般入試を受けることにした。
と、ここまでなら特筆する話ではないかもしれないが、山本は、その一般入試の前に行われる約30人の合格者のみの「特色試験」という狭き門の受験にチャレンジしている。受験までの半年間、塾に行ったり、「人生で一番勉強した」という山本は、試験の手応えはバッチリで、約7倍の倍率を突破して、合格したという。
その上で、10番をつけて中心選手としてプレーをしたことは、異色の経歴だと言えるだろう。
「とくに日本史と英語は、めちゃくちゃ得意で、日本史は覚えるのが楽しかった。そういえば、関西学院大学に進路が決まった後、友人たちが受験勉強に励んでいるなか、テスト期間中もいつものように勉強して、いい点数を取っていたので『俺は受かっているけど、いい点取ったぞ』って煽ってましたね(笑)」
さて、高校に入学してから、エースだった3年生が受験のために早々に引退し、思いがけず1年生のうちから試合に出るようになった。
「高校時代は、10番をつけて試合に出て、ちょっとずつ上手くもなり、今思うと、取材を受けたりして、少し調子にも乗っていたのかなと思います」
とはいえ、“調子に乗る”ということについて、具体的に聞いてみると、ニュアンスはこちらが勝手に抱いた先入観とは少し違うものだった。
「勝ったら俺のおかげだし、負けたら俺のせいだとずっと思っていました。とくに負けたときにすごい責任を感じるようになって、心の底から俺のせいで負けたって思っていたというか。練習も毎日電気が消えるまでやっていたし、消えた後もやっていたこともありました。それにつきあってくれる仲間もいっぱいいたので、環境はよかったと思うし、すごく努力しているという感じはしなかったですけど、毎日必死にやっていたから結果的に振り返ってみたら、努力していたのかな」
“責任感”という言葉は、サッカー人生を振り返るなかで、それまでには使わなかった言葉だった。
「それまでは負けたときに、自分がよかったからいいかって思ってる時期もあったんですよ。でも、“自分のチーム”とまでは言わないけど、客観的にもそう捉えられているということが分かるようになってきていて、本当に負けたら自分のせいだって思っていたんですよね。
だから、周りに対しても、要求していたし、言い方とかも後輩からしたら恐かったかもしれません。でも、僕だけじゃなく同期はわりと我が強かったし、部活っぽさがなかったというか、ひりひりした感じでやっていましたね。だから強かったんだと思います」
その頃から、プロ選手になりたいという目標も現実的に意識するようになった。
「試合に出て、“1年生ながら10番をつけた注目選手”という扱いを受けて、雑誌に載ったり取材をされたりしましたけど、そういうことってそれまでない経験じゃないですか。プロサッカー選手というものが現実味を帯びてきて、やらなきゃっていう気持ちも増した時期でした」
だが、すんなりとそれが現実になったわけではなかった。
高3でセレッソ大阪の練習に参加した山本は、そこで「伸びきった鼻を一回折られた」という。
目標は、大学4年を経て、プロサッカー選手になるという方向に自然と舵を切ることになったが、関西学院大学に入ってみると、「こんなにレベルが違うのか」と、そこでも「もう一回鼻を折られた」始まりだった。
「トップチームに入れた意味もわからなかったし、最初は無理やろうって思っていました。サッカーをしてきて無理だと思うことはあんまりなかったので、とにかく必死にやっていました。それまでしたことがなかった肉離れのケガをして離脱した期間もありましたけど、復帰して自分のポジション(トップ下)がぽっかり空いた時に監督が使ってくれて、『えっ、俺?』って気づいたら試合に出ていました」
今振り返ってみても、大学1年生は、「とにかくめちくちゃ忙しかった」という。
新しい環境で、初めてのひとり暮らし。授業も受けて、課題もこなし、サッカーも必死にやった。そのどれにも手を抜かず、やればできてしまう山本の性分も手伝って、結果的に「めちゃくちゃ忙しい」状況にもなっていた面もあっただろう。
「だいぶ頑張ったと自分でも思います。サッカーのレベルも最初は自分には高すぎるなかで、うまくいかないこともありましたけど、時間がないなかでも工夫しながらやったなと思うし、心が折れずに過ごせたのかな。
大学生っていろんな誘惑に逃げられるじゃないですか。僕はまったくそこに興味がなかった。サッカーが必死すぎて。それがよかったんでしょうね。プロになる目標ももちろんあったから、セレッソで鼻を折られた直後だったこともあって、やらなきゃっていう気持ちの方が強くて、遊びたいとか思ったことがなかった。
あとは、意外と冷静だったので、そういう方向に溺れてしまう人がいることもわかるし、自分はそうなってはいけないという考えも持っていました。家事も洗濯も洗い物も寝ちゃって朝まで置いておくとか許せない性分だったから、全部やってましたね。料理も1週間分は、だいたいこれぐらい買えば使えるなぁみたいな感じで食材を買いに行ったり、ひとりだったからオシャレな料理なんて作らなかったけど、普通に自炊してましたよ」
お湯を沸かしている間に材料を切ったり、料理の“段取り”や効率も考えて自炊していたという。1年生の後半は試合にも出るようになっていったため、「何をしてたかわからないけど、とにかく忙しかった」ことが人生の記憶として色濃く残った。
山本の大学時代のサッカーにまつわる資料や記事をみると、最後にユニバーシアード代表に入り、全試合に出て優勝に貢献し、そこには三笘薫や旗手怜央を始めとするその後もプロで活躍する選手たちがいたこと。天皇杯でガンバ大阪と対戦して目立った活躍をしたこと。そうしたトピックが目に入ってくるが、まずは大学1年生の記憶が色濃かったことは少々意外だった。
「もちろんサッカーの話でいえばいろいろありますけど、でも試合は試合なんで。1年間、よく踏ん張ったなっていうか。あとは…」といって大学時代をさらに振り返った。
「高校時代は、攻撃が得意でやってきたのが、大学では守備をするように言われ、1年生のときはそこも大変でした。自分ではしているつもりだったんだと知りギャップもあったし、大学時代は、本来の攻撃でも違いが出せるまで時間がかかったと思います。だから、高校時代の僕に比べたら、3段階ぐらい違うと思います。だからこそ、高卒でプロに行ってたら絶対に無理だったんだろうなってわかります」
大学3年の秋にボランチにコンバートされたことも、「自分がやりたいかどうかではなく、何でも柔軟に受け入れて、得意ではないこともトライアンドエラーを繰り返してみる」という受け止め方をしてきた。
同世代とユニバーシアード代表で優勝した経験は、刺激になっただろうが、選ばれたタイミングは最後の最後だったため、「それまで一度も呼ばれていなかったし、その前のデンソーカップでも調子がよくて、それでも選ばれていなかったので、最後に転がってきた感じですね。だから、それよりも自分のなかでは大学時代の、もっと地味な時間の方が大変だったなと思うんです」というのが正直な気持ちなのだという。
「僕が入る前年に4冠を取った時に3年生で出ていた先輩たちが僕が1年の時の4年生で、すごく強かったんです。そのなかで1年生の僕がポっと混ざったからすごく大変でした。その代が抜けた後、2年生で中心選手として出ていましたが、それまで首位争いしていたのが、中位ぐらいになり、もどかしさや苦しさがありました。自分自身も1年生から守備のことを言われていた上に、もともと得意だった攻撃でも、もっと尖った存在にならないといけなかったし、なかなかチームとしての結果も出ませんでした」
プレー以外のところでも、学生が主体となって運営やミーティングをしていたチームにあって、学年リーダーだった山本は、その役割にも奔走することになった。
「うちの大学は、人間的成長ということを掲げていて、何事も人のせいにしない。人の話を一回受け入れてやってみる。自分に矢印を向ける。そういう考え方は、大学時代に培ったもので、サッカー部でもチームメイトで話し合って、途中で選手からスタッフになる選手を選ぶということもあって、その意味でも特殊な経験をしたのかなと思います」
関西学院大学サッカー部では、「コンダクター制度」というものが伝統としてあり、2年生の途中から学年で話し合いを行い、3年生になるタイミングで数人が選手をやめる決断をし学生スタッフになり、サポート業務や運営などあらゆる仕事を行うことになる。山本は学年リーダーだったため、毎週そのミーティングが行われた後も、ミーティングをどう遂行するかということを考える時間が増えていったという。
「僕ともうひとりが学年のリーダー役だったので、そのミーティングを引っ張っていかなきゃいけないし、ミーティングのためのミーティングもしていました。当然みんなサッカーがやりたくて入ったのに、なんでスタッフにならないといけないのかという想いもあるなかで、試合に出ている出ていないとかではなく、チームとしてどうあるのが一番いいのかということをミーティングを重ねながら決めていく。話し合いがなかなか進まないこともあるし、難しかったですね」
「日本一になりたい」「プロになりたい」
山本の大学時代は、その2つの大きな目標があった。プロについては、ガンバ大阪も含めて何チームかの練習やキャンプに参加していたこともあり、プロ選手への扉が開かれていることは自分でも感じることができた。そして、大学4年の6月、ガンバ大阪への加入が発表された。
一方の、日本一になるという目標は、叶えられなかった。
「日本一になるためにどうしていくかチームメイトとたくさん話し合ってきたし、その途中でスタッフになった仲間もいた。4年生がサッカー部全体を仕切る役割も担っていくなかで、僕は副キャプテンとしての役職もあったので、たくさん考えました。自分が今のままではダメで、こうならないといけないという思いで取り組んできたし、チームとして日本一になりたかった。どっちかというとそれが先にあったからこそ、結果的にプロにもなれたし、最後のユニバもついてきたんじゃないかと思います」
閑散とした夜更けのスタジアムで
5月3日、ACLE決勝──。
敗者として表彰式での勝者を見る悔しさは、その場に立った者にしかわからないだろう。
山本も、その悔しさを忘れないように目に焼きつけたという。
決勝戦の後、疲労がピークのなかでミックスゾーンでフロンターレ選手たちがメディア対応をし、バスに乗りホテルに戻った。
その後、フィルミーノらアル アハリの選手たちを取材する現地メディアを中心に賑わっていたミックスゾーンも、しばらくすると閑散としていた。
この戦いを最後まで見届けたかったので、ドーピング検査の対象選手だった山本と付き添っていた本田ドクターを待って、フロンターレを取材していた他の記者たちと話を聞いた。
「あの素晴らしいスタジアムで完全アウェイの状態での表彰式での疎外感というか、ずっと見てました。刻んでやろうと思って。
出てる選手はやるべきことをやったと思いますし、出てない選手もベンチに入っても出られない選手がいたり、それぞれの葛藤のなかでチームのタイトルのためにぐっとこらえてやってくれた選手もいる。そういう人たちに感謝をしないといけないし、ピッチに3試合とも立たせてもらった分、最後に手が届かなかったのは悔しさもあるし申し訳なさもあります。
決勝は、あの圧のなかで平常心だったかというと、チームとしてはそうではなかったと思いますし、あの中でやれることはあったと思う。決勝の難しさもあったと思いますけど、できなかったということもちゃんと覚えておかないといけないなと思います。
このACLEでサッカー選手をやっててよかったなと思える瞬間があったし、もっとやれたところもあった。
遠いところまで来てくれた方、日本から応援してくれた方、いろんな状況でたくさんの応援は届いていました」
異国での2週間が終わると、すぐに国内ではJリーグでの戦いが始まった。
引き続き、山本は試合にコンスタントに出続けていた。
疲労は感じていただろうが、そういうときこそ「身体と頭を必死に切り分けて」より頭を使って考えることに集中してプレーをしているのだという。
改めて、サウジアラビアでの日々を振り返ってみると、落ち着きから生まれるいいメンタリティでサッカーができたと感じられた。
「Jリーグよりフィジカル面でも感じる圧は多かったですけど、いい緊張感の中でも変にリラックスしていたんですよね。いい意味で」
準決勝で勝利した翌日に、小林悠が山本について、こう話していたことが印象に残っている。
「あの山東戦(2024年2月)もそうでしたけど、悠樹は本当にACLEで輝きましたね。間を取るのがうまいので、海外の選手のちょっとズレるというかずぼらな面がディフェンスで出た時に、悠樹のポジショニングが効く。それに、淡々と感情を出さずにやっているところも含めて、悠樹のここでの存在は大きかったなと思います」
帰国して間もない時に、山本は麻生グラウンドの食堂で中村憲剛に偶然会ったという。
「ケンゴさんからも『よかったよ』って声をかけてもらって。なんか、いろいろ見える時がありませんか?って聞いたら、『悠樹、もうそこなの?』って言われて。ケンゴさんのレベルからは、まだまだだと思うんですけど、普段よりは見えるんです。そう言ったら、『そういう時、あるよね』って言ってくれて」
とても嬉しそうだった。
山本がACLEで肌で感じられたことは、未来にもつながる基準にもなっただろう。
「最後は負けたし、決勝はまた一個レベルが上がった感じが相手も雰囲気も含めてあったので、ああいう中で、もっとやらないといけないなっていうのは、ひとつの課題としてあると思うし、あの感覚の中で、落ち着いてやらないといけないっていうのが基準になりました。だから、自分のレベルを落とさないで、その基準を忘れないようにやりたいです」
感覚や感性は、考える力や想像力を鍛えることで、養われるという面もあるだろう。
培ってきた技術を駆使してそれを実行し、体感できたことで生まれた自信は、大きな武器となり、それが山本悠樹らしさになっていくのだろう。
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[やまもと・ゆうき]
正確なキックと優れたサッカーセンスでチームの攻撃をクリエイトするMF。パスの出し手としてだけではなく攻守の切り替えやゴール前に入り込む意識も高く、対戦相手にとって非常に厄介な選手としてピッチに君臨する。
1997年11月6日、滋賀県野洲市生まれニックネーム:ゆうき