ピックアッププレイヤー 2025-vol.08 / GK98 山口瑠伊選手
テキスト/隠岐 麻里奈 写真:大堀 優(オフィシャル)
日本とフランスの両国をバックボーンに持ち、自身を育み、育まれてきた。
フランス人の父の影響を受け始めた柔道。やがて、受け身を連想させるGKにのめり込み、サッカー選手として生きる道を選んだ。
フランス、スペイン、日本。辿り着いた川崎フロンターレでプレーする今が、とても幸せだと感じている──。
あの瞬間
ACLEファイナルズ準決勝アルナスル戦。
試合が終盤になるにつれ、それまで以上にアルナスルの猛攻が繰り広げられていた。
山口瑠伊は、集中力が持続しており、むしろいいメンタリティでその時間を過ごせていたという。
後半アディショナルタイムに、この日3本目となるクリスティアーノ・ロナウドのFKがセットされた頃までには、瑠伊は、プレーリズムを作るには、十分すぎるほど強烈なシュートを何本も受けていたし、相手と駆け引きするだけの落ち着きも生まれていた。
「最後の時間帯はすごく押し込まれていて、それまでの2本のFKは距離は少し遠かったけど位置はだいたい同じで、ロナウドが壁の上を2回狙って、2回とも(壁に当たり)失敗していました。だから、3回目は、あの距離だったら直接GKの方に来るだろうなと思っていたら、実際に来たんです。最初はボールが見えなくて、急に下から出てきた。あの試合は、ディフレクションからゴールが入っていたこともあって、(それが経験となって)当たったわけではなかったですけど、急なことに対応できた。目が慣れていたんですね。受け身になると予測しすぎちゃうし、例えば、シュート練習でダメな時って、自分に集中しすぎて、リズムが取れない。でも、いい状態の時は、相手が見えているから駆け引きができて、落ち着いている。あのFKの時は、ゾーンに入っていたような気がします」
勝利した時の感動は、忘れられないものになった。
GK仲間やチームメイトはもちろん、支えてくれた石野智顕GKコーチを持ち上げるようにハグをしたら「ありがとう」という言葉が自然と何度も出てきた。
試合後、高揚感に包まれたまま、ロッカールームへと続くスタジアムの階段を下りたところで、思わぬ選手から声をかけられた。
“Well done, goalkeeper”
クリスティアーノ・ロナウドだった。
「最後のFKもそうだし、最後の1対1の場面も、いつもだったら決めていたのに、お前が(前に)出てきたからコントロールしないといけなかったんだよね。ナイス。ってちょっと悔しそうな表情で言われました。ユニフォーム交換してくれますか? って聞いたら、OKをしてくれたので待っていたのですが、彼はその後ドーピング検査があったので、結局、その間にロッカールームが片づけられてしまったそうで。『ごめんね』と言われ、一緒に写真を撮ってもらいました」
中2日のマインドセット
ターニングポイントは、準々決勝が終わり、準決勝を迎えるまでの中2日にあった。
ACLEファイナルズ初戦となった準々決勝のアルサッド戦。フロンターレは延長に入り98分にキャプテン脇坂が決勝ゴールを決めて、3対2で勝利を飾っていた。
だが、瑠伊の気持ちは晴れやかとは言えなかった。
1失点目は自分のミスが要因であるという想いが心にあったからだ。
悔しかったが、その夜は、一旦忘れて寝ることに努め、翌日、石野コーチと、いつものように映像を見て、試合の振り返りをした。
物事には、事実があるが、捉え方次第で、メンタリティを変えることができる。
普段とは環境が違う大会であり、負けたら終わりという短期決戦の緊張感や責任感も伴っていれば、なおさらその捉え方や切り替えは大事になってくるだろう。そういう経験を、瑠伊はあの数日間でしていた。
「僕自身は、イージーなミスだったなと思っていたんですけど、トモさんと分析しながら、『難しかったけど、防げたよね』と技術的な振り返りをしました。自分のミスで負けてしまったらそこで終わるかもしれない。そういう1回のプレーの重さをすごい感じて、本当にチームメイトから助けられたので、次の試合では僕が絶対に助けようという想いもありました。切り替えも必要だったし、GKなら誰でも経験することだと思いますけど、上手くいかない時に、次のプレーや試合でどれだけリバウンドメンタリティを持ってできるかが大事なんです」
切り替えられたのは、技術面での振り返りと、何よりも石野コーチのメンタルケアのおかげだったという。
石野GKコーチは、こう捉えていた。
「一見するとGKが防げそうだなと見えるボールで失点したので、そういう場合って、負けてしまったり勝点を落としてしまう流れになることも実際あると思うんです。ああいう大きな大会の初戦で、誰しも緊張するなかでのプレーでしたからね。おそらく瑠伊のなかに、『頑張んなきゃ』っていう意気込みがあったなかで、ガッカリしたと思うんです。でも、現実、フロンターレは勝ちました。勝った上で、反省ができた。あの試合があったから、基本に戻れたというか、瑠伊も真面目だから完璧を求めて成功させようというところがあったかもしれないけど、落ち着いてサッカーに取り組むことができたんじゃないかなと思いますし、僕自身も瑠伊に対してプラスに促せるなと思えたんですよ。それで、いつもやっている振り返りを映像を見せながらした上で、いろんな話をして、次はチームに勝ちをもたらすプレーができていくといいんじゃないかって話をしました。『もし、こうだったら』っていう仮の話ではなく、現実に起きたことに対して改めて何が大切かということが話せたのはよかったのかなと思います」
実際に、サウジアラビアでの初戦が終わって、勝利はしたものの翌日に話を聞いた時には、瑠伊の表情がまだ硬かったことを覚えている。そういうメンタリティの時に、「勝って、次にいけるんだから。お前ついてるから大丈夫だよ」と、信頼しているコーチから言われたら、どれだけ心が軽くなっただろうか。
さらに、その翌日、つまり準決勝の試合前日に、スタジアムが変わることもあり、瑠伊は選手を代表して、ピッチの芝を確認するためスタジアムへ足を運んでいた。
石野コーチから、こんなことを言われた。
「俺は、瑠伊がここでスーパープレーをして、チームを勝たせて決勝に行くと思っているんだよね」
それは言霊となって、瑠伊の心に広がっていった。
果たして、準決勝は、石野コーチの予言通りの展開になったと言えるだろう。
「はい、そうなんですよ」と、瑠伊はその時のことを思い出して笑顔になった。
「選手として、自分自身を信じるだけじゃなく、コーチに信じてもらえることは、本当にうれしいです。トモさんは、僕だけじゃなくて選手のことを理解してくれていて、ちょっとした表情の変化とかでも何で分かるんだろうって思います。初戦(準々決勝)の後、準決勝に向かう中で、ファーストプレーを落ち着いてやれば自信にもなるし、タイミングもリズムも取れるから大事にしようとトモさんからも言われていました。確かに相手もどこからでもシュートを打ってくるフォワードがいて、実際に最初にシュートを打たれた時に、しっかり防げたことでリズムができました。試合の最後は、それまでにいろんなシュートを受けたからこそ、リズムに乗っていてプレーしやすかったという面もありました」
石野コーチは、「止めたよねぇ(笑)」と言って、戦いを振り返った。
「準決勝は、そもそも攻撃はされるだろうから、そういうつもりでいた方がいい、ということと、できることをやってくれればいいから、と話していました。いい攻撃陣が相手にいるなかで、攻められるだろうけど、逆にいえばGKとしてはリズムが作れるからいいよね、ということも事前に話したのかな。試合中は、ベンチワークがあるので、落ち着いていたいですけど、あれだけ止めたら『いいぞ、よく止めてくれた』って興奮しましたよね」
それから3日後、決勝が終わり、フロンターレサポーターの前に選手たちが整列し、励ましのエールを受けていた時、山口瑠伊は深々と長い間お辞儀をしていた。
「もちろん負けて悔しかったというのはありましたけど、サポーターの方に歩いて彼らの姿を見た瞬間に申し訳なさと悔しさを一番感じました。すごく遠いところまでお金も出して自分たちをサポートしてくれた人たちのためにも、やっぱり喜びを届けたかったし、あそこまで来て応援してくださる人たちのために優勝したかった。そんなことを、ずっと考えていました」
月日が経って改めて考えると、怒涛の日々から、あらゆるものが得られたと感じられた。
「スタジアムの雰囲気、盛り上がり方もすごく印象に残っています。それまでは、テレビの向こうの世界だったところに自分がいたんだっていうのが、大会が終わって一番始めに感じたことでした。大会の最初は、やってやるぞという気持ちで臨みましたが、自分にとって初めての大きい大会で相手も初めてのチームで大丈夫かなと思う気持ちも少しはありました。でも、実際にやってみて感じたことは、“毎日練習してきたことと同じだな。サッカーをやっているんだな”という感覚でした。それが感じられたから、結局、どんなに大きな大会でも日々一生懸命練習していたからこそ、思ったよりも緊張しなかった。改めて振り返っても、いいプレーも自分らしさも出せたところもあったし、それが自信になりました。
それから、僕だけじゃなく守備に関しては、レベルが高い選手たちと、あのプレッシャーの中でやることで、“本気”のプレーが引き出された。もちろん足りない部分はありますけど、高い基準でプレーできたことを実感できました。(山本)悠樹とか見ていて、一番自信とレベルが上がった感じがするし、帰国後のJリーグでもチームとして攻撃の部分でもビルドアップが安定して、後ろから見ていても、いい経験をしたんだなって感じることができました」
瑠伊が習慣にしているサッカーノートには、日々、経験したことや自分の気持ちや考えをフランス語で書き綴っているが、ACLEファイナルズの期間、いつも以上にたくさんのことがぎっしり書きこまれた。
つないだバトン
6月上旬のこと、石野コーチに話を聞かせてもらった際に、ACLEについて振り返ってもらった。
「表彰式の時には、優勝したかったから悔しいのひとことでした。決勝の舞台までいけるチームは2チームしかなくて、そこに立てたのは感慨深いものが今思えばありますけど、なおさら優勝できたら最高だったんだろうなって。でも、一方で優勝したチームはそれなりの力があったのだろうと思いますし、何かが足りなかったわけで、終わってすぐに、ピッチでそういうことを考えていました。ACLEは、なかなか出られない大会になっているので、ここまで来たのになって。そう思った自分がいたような気がします」
そう言って、「ACLE、長い道のりだったじゃないですか」と噛みしめた。
昨年秋からリーグステージが始まっていたなかで、コーチングスタッフの中で、唯一すべての試合に携わったのは石野コーチだった。
「帰国してからも、やっぱりこの大会での優勝が次のACLEやクラブW杯につながったと思うと、もうひとつ頑張らせる方法が何かなかったのかとか、失点をしないために伝えられることは何かあったんじゃないかとか、考えました。振り返ってみると、昨年からのリーグステージも簡単じゃなかったし、きつかったじゃないですか。昨年は、シーズン終盤にチームとして上がっていきながら、シーズンをまたがるなかで、サウジアラビアにも行った。改めてこうして振り返ってみると、想いが募る大会ではありましたよね。それに、GK陣もリーグステージからファイナルズへと続くなかで、ソンリョン、アンちゃん、瑠伊の3人が試合に出ている。いろんな意味でバトンをつないで最後、ファイナルズにつながった。みんなで戦ってきましたからね」
大会期間中、チーム内で唯一ACL優勝経験があるベテランのソンリョン、ACLEリーグステージで9年ぶりに公式戦に出場した安藤駿介がいて、競争しながらも、試合に出ている瑠伊をしっかりと支えていた。
若い中川真は、得難い経験をしながら、石野コーチからの指導を受け必死に食らいついていた。
準々決勝の延長前、ベンチメンバーも含めて大きな円陣が組まれた時、自然と瑠伊の両脇には、石野コーチ、ソンリョン、安藤が寄り添っていた場面も含めて、GKのチームワークは、心に残る光景のひとつだった。
トレーニングと成長
2024年、夏──。
山口瑠伊が、FC町田ゼルビアからフロンターレに加入したのは、上福元直人の湘南ベルマーレへの移籍のタイミングだった。
ソンリョン、安藤、早坂勇希、そして石野GKコーチがいるフロンターレGKチームに加わり、「いい人たちばかりで、馴染みやすかった」と振り返る。
8月14日の加入発表から1ヵ月後の早いタイミングでデビューの機会は訪れ、9月6日ルヴァンカップ準々決勝第1戦甲府戦で1対0で完封勝利をおさめた。
ところが、その1ヵ月後に再びチャンスが巡ってきたルヴァンカップ準決勝第1戦新潟戦では、対照的に1対4で敗戦してしまう。 この試合が、瑠伊のなかで、気づきや成長をするための大きなキッカケにもなったという。
「最初の甲府戦は、いいプレーができてよかったですけど、新潟戦は課題もいろいろ出ました。とくに、1対1の対応をトモさんとの振り返りで映像を見ながら確認したことはすごく覚えています」
瑠伊には、移籍当初から、練習の中から自分を成長させたいという想いがあったという。そんななか、練習中に石野コーチから「もう少しこうしてみたら?」とアドバイスをもらったことがキッカケで、自分からも改善点を聞くようになり、しばらくの間、個別練習にも取り組むようになったという。
石野コーチに当時のことを聞いた。
「瑠伊のことは、彼が水戸ホーリーホックでプレーしていた頃から、ダイナミックでシュートを止めるなという印象はありました。実際に一緒にやると、バネとスピードは、彼の特徴ですよね」
飛んだ際に、身体が空中で真横になるようなフォームになるのは、その一例だろう。
「簡単ではないですが、欧州のGKではよく見られる形ですよね。やっぱり、バネがあるからだと思います。移籍してきた最初の頃は、まだ遠慮がちで、本来はもっとダイナミックなプレーをするんじゃないかなと感じるところもありました。少し癖がある部分は直してみようかという話になり、ひとり残ってコツコツ練習して積み重ねていました。真面目で素直な印象でしたけど、心にある闘志をもっと前面に出せるようになったら、もっとよくなるんじゃないかなと期待を持ちながら接していましたね」(石野)
瑠伊自身、プレーの変化や成長をすぐに感じられたという。
「いっぱいありますよ。キャッチの意識とかクロスの対応とか、ポジショニングとか1対1のシチュエーション…キリがないです。判断の部分でも、自分の武器を使い分けるというか、使う場面を選びなさいと言われました。1対1の場面で距離を詰めるのか、わざと距離をあけて反応で対応するかとか。後に1対1の対応がよくなったねって言われるようになったキッカケは、新潟戦があったからです」
石野コーチから聞いた話で印象に残っている考え方があった。
「試合に送り出した以上は、出た選手を信じているし、結果はどうあれ、最後までやり切ってくれればいいと思っているんです。その結果が、勝ったら大成功だし、もし負けたとしても次に向けてのヒントが何か得られる。もし失点したとしても、それが勝っても負けても次につながる。トライして積極的にミスをしていいよって言うこともあります。スケールを小さく終わらせてもらいたくないし、ミスをすることで、むしろ『(次は)いけそうじゃん』って感覚もわかる。セットプレーなどでも、ミスしたらどうしようと思って出られないより、安心して思い切って出てみる。簡単なように見えて、背中を押すために繰り返し伝えていくことは必要だと思っています。こんなことを言うと偉そうですけど、彼らが成長するキッカケになったらいいなと思っているんです」
試合と経験
迎えた2025シーズン。
瑠伊は、開幕戦で念願のJ1リーグ戦でデビューした。
そこからの日々は、トレーニング、試合、振り返り、トレーニング…の繰り返しがルーティンになっていった。勝利しても負けることがあっても、試合の振り返りをきっちりすることで、地道に次につなげていくことができ、それが瑠伊の成長を促した。
「最初は、こんなに連戦なのは実は初めての経験なので、ハードだなと思ったこともありますけど、慣れました。振り返りをしたことも忘れないようにノートに書いています。たまに新しい改善点に僕が集中して、昔の改善点を忘れてしまうことがあると、トモさんが“ちょんちょん”って肩を叩いてひとこと言ってくれるんです」
GKは、シューターが打つ前に予備動作として、ポンと軽くジャンプをして、本動作をスムーズにし、効率よく動くためのリズムを作っている。
瑠伊は、そのプレジャンプが手の動きを含めて大きくなりがちだったため、改善していた。
「ある日の練習で、トモさんが言ってくれたんです。『疲れもあったのかもしれないけど、プレジャンプがまた大きくなってきたよ』って。『あ、わかりました』って。すぐ練習から意識して次の試合までに修正できました」
そういう日々の関わりは、「改善」や「成長」といった次へ向かおうという前向きなメンタルに着地点があるため、失点や敗戦に責任を感じることがあっても、心が疲弊することがなかったという。
「そうなんですよ。トモさんは、起きたプレーや現象に対して、修正して、次にどう結果を出すかにつなげてくれるんです。いい試合をしても改善点が見つかるし、負けた時は、そのひとつの改善点が重いし責任もより感じます。でも、そういう試合で改善点を見つけられた時は、一番成長していると感じられるんです」
石野コーチは、こんな風に言及していた。
「試合に出てからは、やっぱりすごく考えるようになったと思います。自分をさらに高めるためにはどうすればいいかとか向上心ですよね。僕からも、フロンターレで試合に出たから満足するのではなく、その先どうなっていきたいか、代表をめざすとか目標をもっと高く持ってやる価値はあるんじゃない?って話をしたこともあったかな。瑠伊からも映像を観ましょうとか、プレーひとつ、シュートひとつに対して自分なりの考えを伝えてきたり、イメージを持ちながらやれている。そういうなかでもさらに改善や改良した方がよくなるね、っていう話にも耳を傾けて、素直に取り組んでいる。話を聞くと面白かったりしますよ。ぜひ聞いてあげてください(笑)」
瑠伊は今、試合に出続けつつ、同時進行で経験を積んでいる。石野コーチは、そのことをできるだけ最大化させたい想いがあるのだなと話を聞いて感じるものがあった。うまくいったプレーも含めてその場で肯定したり修正を加えていくことが連続してできるからだ。
「今シーズンの流れは、瑠伊に対してすごくいろんなことを伝えるタイミングがある。それがいいことだなと思っているんです。実際に、その都度、話すなかでいろんな気づきがあったり、生まれたりしていて、それが積み重ねになるから大事だよって伝えています」
経験をひとつひとつ積み重ねていきながら、同じ現象が起きることはないなかで、その瞬間をどう捉えてプレーを選択していくかを判断していく必要がある。気づきを増やすことで、実際以上に経験値を増やせることを今、瑠伊は実感しているという。
話を聞いたのは、6月のことだったが、少し前のJ1リーグ第13節浦和レッズ戦と、14節ガンバ大阪戦で得られたことを話していた。
「例えば、浦和戦で相手のクロスがそのままゴールに入って失点したことがありました。誰にも触らずそのまま入った。それがあったから、次のガンバ戦で、同じようにクロスが上がった時に、頭のどこかで浦和戦のことがよぎったんです。でも、振り返ってみれば、そもそもボールはゴールに向かっていなかった。そういう見極めをしていかないといけないし、改善しながらもまったく同じ現象が起きる確率は低いから、それを分かった上で経験を積んでいかないといけない」
石野コーチも、こんな話をしてくれた。
「時にはこれで負けちゃったらっていう不安な気持ちが出てくることがあったとしても、それでもトライし続けるメンタルの強さが加わってきたら、当然もっといい選手になりますよね。この間の広島戦(5月31日J1リーグ第19節)で、相手選手がシュートを打って、瑠伊が止めて、すぐにカウンターになって惜しい場面がありました。1失点を救って、プラス1得点につながったら、2点の価値になる。そういう場面が増えていけばいいと思うし、それを理解してくれる人がひとりでもいれば、GKも自信をもってトライできるようになるだろうから、少しでも支えられたらなと思っています」
GKトレーニング
麻生グラウンドの一角で行われているGKチームの練習を見ると、きついなかでも楽しんで練習しているのが伝わってきて、見入ってしまうという方も多いのではないだろうか。
「練習中は集中しているから周囲からの反応や声が分かるわけではないんですけど、もし観に来てくれた方たちがGKの練習を見て、少しでも面白いなって思ってくれていたら、それはすごくうれしいです。選手にとっても、そういう反応があることは励みになると思います。集中してやるなかでも、やっぱり楽しいにこしたことはないし、それで充実感や納得感が得られたらすごくいいことですよね」(石野)
練習メニューの充実は、石野コーチの両足からテンポよく繰り出されるキックの正確性によるものも大きいと感じるが、その原点を遡れば、ふたつの出来事があったという。
ひとつは、中学1年の時に、右足を骨折したこと。
「当時はまだ今のようなリハビリもなかった時代で、固定していたギブスを外したら、筋力も落ちて細くなって、数ヵ月固めていたから、当然すぐには動かない。しばらく右足で蹴るのは怖かったので、仕方なく左足で蹴り始めたら、右足が治った頃には同じ様に蹴れるようになっていたんです。今思うと、それがゴールデンエイジ(子どもの運動神経が顕著に発達する時期のこと)だったので、その後も両足で蹴ることができました」
もうひとつは、清水商業高校時代に、ブラジル人GKコーチに指導を受けたこと。
「イーロというGKコーチが左右どちらも蹴る方で、言葉が通じなくても、蹴られたボールを受けているだけで、すごく自分がうまくなると感じられました。だから、ボールに想いをのせていれば、きっと相手に伝わるんだなと思うようになったんです。適当に蹴るのではなくて、自分が思い描いたボールを配球してあげることで、選手は伸びるんだな、と気づけたし、彼のおかげでうまくなった実感もありました」
GKコーチに自分がなった時にも、そうありたいと思える影響を受け、それが今につながっているという。
「右も左も同じ様に蹴れると、僕ひとりで意図したボールが配球できるから必要なことだと思っているんです。そうすれば、ボールのコースや強弱を変えることで同じメニューが一緒にできるし、ただ蹴るのではなく、ここで弾かせたいとか、ここでキャッチさせたいとか目的もあります。ボールが中央に入りすぎると余裕でつかめちゃうから『ごめん』っていうこともあるし、ボール1個分、中なのか、外なのかでも違う。試合中にはいろんなボールが来るので、僕も毎日毎日、彼らと一緒に勉強させてもらっています」と話してくれた。
現在は、ソンリョン、安藤、瑠伊、クンヒョンの4人が、トレーニングに取り組んでいる。
「本当に仕事がやりやすいですし、感謝しかないです。こういう環境でやれたら選手も成長すると思います。ソンリョンも大ベテランでありながら手も抜かないし、アンちゃんも後輩が絡みやすい存在。それぞれ天然なところもあって、年齢関係なく互いに突っ込んで笑いが起きることもあるし、競争がありながらいい雰囲気でやってくれていると思います」
そして、こんなことも言っていたことも印象的だった。
「試合には、GKはひとりしか出られないですからね。僕もできることなら全員出したいです。でも、ルール上はひとりしか出られない。それでも、アンちゃんみたいにチャンスが巡ってきたときにちゃんと仕事ができる。みんながプロとしてしっかり日々やっているからこそですよね」
そういう日常や仲間に、瑠伊も支えられピッチに立っている。
フランスと日本、柔道とGK
山口瑠伊は、フランス人の父と日本人の母の元に生まれた。6歳上に姉がいて、瑠伊が生まれた6か月後に一家はパリから東京にやって来た。父と母は互いのバックボーンであるフランスと日本の両国を知ることができるよう育ててくれたし、それが瑠伊を語る上での重要なアイデンティティとなった。
「僕は、“ハーフ”ですけど、“ダブル”だと思って育ってきました。半分じゃなくて、ふたつの国の文化、考え方、価値観を知っている。両親がそれを念頭において育ててくれたことに感謝しているし、近づけるように努力しています」
瑠伊が最初に覚えた言語は、日本語だった。その後、日本の幼稚園を経て、小学校からフランス政府が運営する都内のインターナショナルスクールでフランス語で教育を受けた。また、4、5歳頃から、夏休みの約2ヵ月は、父方の祖父母がいるフランスのブルターニュ地方にあるレンヌという街で過ごした。そうした背景もあり、自然にフランス語も身についたという。
「1年のうちの2ヵ月ってけっこう長いですからね。ブルターニュには、海もあり、山もあって、満喫していましたし、おじいちゃん、おばあちゃんと過ごすことは楽しかったです」
フランス人の父は、仕事の傍らで柔道に打ち込んで6段を有し、居合も含め“武士道”がライフワークだった。
そんな父の影響を受けた瑠伊も、柔道を始め、小学4年からはサッカーも始めた。
柔道が好きなのは「戦い。勝ち負けがあるから」とニヤリとし、「いつかお父さんみたいになりたいという気持ちもありました」
GKを始めた理由も、「柔道と似ていたから」で、グローブや肘あてなどフィールドプレイヤーとは違う用具を装着すると「これから戦いだぜ」と気分が高揚した。
最初はフォワードで、そのうちGKと両方やるようになり、6年生の頃にはGK専任になった。柔道をやっていたおかげで受け身が取れたため、身体を投げ出すことも突っ込むことも恐いと感じることはなく、むしろ楽しかった。
最初の転機となったのは、柔道の将来性もあると言われたことで、サッカーと柔道のどちらの道を進むか選んだことだろう。
当時は、冬になると柔道には寒稽古があり、早朝5時から練習。それから学校に行き、放課後にはサッカーの練習があった。週末にも午前に柔道、午後にサッカーの試合がある。さらに、フランスの教育システムでは、試験や日常の勉強をクリアしないと進級にも関わったため、学業も疎かにしないよう両親から言われていたこともあり、自然と文武両道を体現していた。
「柔道とサッカー、どちらかを選んだというより、母からは『将来、何がやりたいの?』と聞かれて、サッカー選手になりたいという気持ちだったんです。最終的には自分が楽しいと思える方を選びました」
サッカーの道に進むことが決まると、さらに転機が訪れた。
FC WASEDAに所属していた瑠伊(ちなみに、タビナス・ジェファーソンとは同い年でチームメイトだった)は、セレクションを受けて、6年からFC東京サッカースクールのアドバンスクラスに入り、掛け持ちしていた。その他にも週1で別のスクールに通ったこともあったという。瑠伊も両親もJクラブについての知識がほとんどなかったため、サッカー選手になりたいという夢を叶えるため、母が情報集めをして、行動してくれたという。
FC東京U-15深川では、浜野征哉GKコーチや山下渉太GKコーチらから指導を受け、「本格的にプロ選手になりたい第一歩だったと思うし、多少緊張感やプレッシャーもありましたが、すべての面で成長した時期でした」と振り返る。
巡り合わせというしかないだろうが、後にプロ選手になった3人のGKが、FC東京の育成組織には瑠伊を含めて3人いた。
アドバンスクラスでチームメイトだった波多野豪(現FC東京)は、中学は、FC東京U-15むさしに進んだ。
瑠伊と同じ深川には、廣末陸(現JFL・ラインメール青森FC)が所属していた。
「中学時代は、陸が試合に出ることがほとんどでしたし、陸を抜かないとプロにはなれないだろうと思っていました。でも、最初は陸がこれぐらいで、僕はこれぐらいの実力だったと思います」
そう言って、右手を頭上に掲げ、一方の左手は、腰の辺りに置いた。
「僕は、ポテンシャルはあると言われてきましたが、陸のキックや足元の技術は圧倒的でした。(その後、FC東京でチームメイトになった)マルさん(丸山祐市)が、フィードの技術は、(廣末が)日本一じゃない?って言ってましたけど、そういう陸とライバルだったというのもすごく大きい経験でした。僕は当時、ゴールキックがハーフウェイラインを超えられなかったし、蹴り方も変だったんです。それですごく苦労しました」
「陸とのキック技術の差は、最初はこれぐらいあったと思います」と言って、その両手をさらに遠くに広げた。
中学生になってからの瑠伊は、引き続きサッカーと学業を両立する努力が必要だった。毎年、学校のスケジュールが変わる中で、授業終わりに練習に行き間に合う日もあれば、遅れてしまう日もあったという。だが、水曜日だけは学校が午前中で終わるため、速攻でグラウンドに行き、ボールを並べて、ロングキックの練習をひとりで繰り返しやっていたという。
一番最初にクラブハウスに着くと、コンコンコンとノックをして、「FC東京U-15の山口瑠伊です。こんにちは」と挨拶をして、カギをもらい、ボールを取りにいく。そうした日本での集団生活に必要な習わしも柔道以外では、ほぼ初めての経験だったので、分からないことは母に教えてもらって理解しながら、最初は緊張しながら、大きな声で挨拶をしていた。
3年生になる頃には、成長していた瑠伊は廣末とポジション争いをするようになり、最終的にはFC東京U-18に昇格したのは、むさしから波多野豪、深川からはポテンシャルや身体能力の高さから山口瑠伊が選ばれた。
瑠伊は、中学時代を改めてこう振り返った。
「あの頃、ライバルがいて、僕はなかなか試合に出られなくて悔しい思いをいっぱいしましたけど、すごい成長させてもらいました。それがなかったら今の僕はいなかったと思います。感謝しています」
U-18への昇格を掴んだ瑠伊だったが、すぐに大きな転機が訪れようとしていた。
加入から数ヵ月後に、フランスへ渡るという決断をすることになった。
その大きな理由になったのは、学業とサッカーの両立が、物理的な距離の遠さもあり、困難を極めたということだった。
朝は6時30分に家を出て、学校に行き、U-18から練習場所が小平になったため、練習後に自宅に帰ると23時を過ぎることもあった。進級のために学校の宿題やテスト勉強をする時間がなく、疲労から起床するのがやっとという状態の日もあった。
「学校も高校から校舎が変わったので、教科書が入ったリュックと大きなサッカー用具を入れたバッグを持って、満員電車に乗っていました。それで小平の寮に週3とか泊まらせてもらうことになって、同じGKで同じ苗字の山口さんという先輩がいて、ぐっさんと呼ばせてもらっていたんですけど、寮生活とかいろいろ教えてもらってお世話になりました」
実は、U-18に昇格したタイミングで、短期間フランスのクラブに練習参加していた瑠伊には、フランスに行く選択肢が生まれていた。そして、両親とも相談し、学業との両立が可能な環境面やサッカーのことも考えて、フランス行きを決めることになる。
同じ小平で練習していたトップチームのGK権田修一にも思い切って声をかけて相談したところ、「絶対行った方がいいよ」と言ってもらえたことも最終的に瑠伊の背中を押してくれた。
こうして2014年夏、16歳で渡仏することになった。
フランス、スペインでの日々
FCロリアンは、クラブに教師が来て選手たちが高等教育が受けられる環境が整っていた。2階建ての寮には各自の部屋、食堂、授業が受けられる教室もあった。そのため朝8時までしっかり睡眠を取り、8時30分から授業を受け、希望していたサッカーと勉強を両立することができた。
ちなみに瑠伊は、高等教育卒業後も、フランスのグルノーブルにあるグルノーブル・エコール・ド・マネジメントという通信課程でも学べるビジネススクールにトップアスリート枠で合格している。現地にも年に数回行きながら、オンラインで授業を受け、課題やレポートをこなして学士号を取得。続けて、同校で経営学の修士号(マスター)を目指し、最終的には8年かけて2023年にMBAを取得している。卒業論文は、「eスポーツにおけるビジネス構築」について執筆した。
「選手のうちから、いろんなことに興味を持つことは大事だし、引退した後も人生は続く。人としてもっと成長したいなという想いもあって勉強にも取り組みました。サッカーのことにつなげて考えると、GKは後ろから情報が入ってきて、それを自分で考えて修正しながらチームメイトに伝えていく仕事でもある。そういう意味でも常に頭を働かせて勉強することが、サッカーでの成長につながるのではないか、と。だから、勉強するのは、トレーニングすることと同じなんじゃないかと思っています」
さて、FCロリアン時代に話を戻すと、3年間で、U-17、U-19とふたつのカテゴリーでプレーをし、2年間の寮生活を経て、18歳になるとアパート形式のひとり暮らしも経験した。車で2時間程離れてはいたが、祖父母と同じブルターニュ地方にいることも心のよりどころになった。
サッカー面でもその3年間で得たものは大きかった。レジェンドと呼ばれたGKコーチに指導を受ける機会があり、FC東京アカデミーで学んだ技術に加えて、GKとしての在り方を叩き込まれた。当時ロリアンの監督だったレジス・ル・ブリからは、サッカーの理論やシステムのこと、相手の動きに応じて、どう動くべきかなど映像を使った解説を聞いたりと、サッカーインテリジェンスを学んだという。
環境も申し分なく、そのままプロ選手として契約することを目標としていたが、3年目にロリアンがリーグ1からリーグ2に降格。経済的に厳しくなり、クラブを離れる選手が増えるなか、まだ若く、アンダーカテゴリーを中心とした試合経験しかない瑠伊にチャンスは回ってこなかった。
「それで、本格的に(育成ではなく)プロの大人と試合経験を積まないとダメだなと思った」瑠伊は、行動に移し、フランスに残る可能性もありながら、エージェントを通じてプレービデオを見てもらい、自分を欲しいと思ってくれるクラブに行きたいという希望から、スペインへの移籍を決めた。
実は、瑠伊にとって、これが初めてのスペイン滞在ではなかった。FCロリアンの練習参加するよりも前、中学生の時にマドリードのラージョ・バジェカーノのユースチームにも単身で短期間、練習参加したことがあった。サッカー以外でも、ご高齢の女性宅にホームステイして、自由時間にひとりで美術館に行ったり、とても楽しかった。学業との両立などを考慮してFCロリアンを選択したが、スペインで過ごした記憶は、ずっと頭に残っていた。
とはいえ、スペインでは苦労も多かった。
最初に入ったエストレマドゥーラUDが当時3部リーグで、そのBチームで試合に出たため、実質4部からのスタートだった。グラウンドも人工芝や土のようなところもあったが、自分に必要なことは、試合に出てレベルを上げていくことだと分かっていた。
「さらに下がっていくことは絶対にない。ここから積み重ねて成功するだろう。そういう根拠のない自信みたいなものは、なぜかありました」
そう言って、「大丈夫っしょ(笑)」と当時の心境をつけ加えた。心根としてのポジティブさや負けず嫌いな一面が、ふわっと前面に出てくることがある。物事をポジティブな面から捉えるタイプなのだと自身を説明してくれた。
「僕は小さい頃から、ポテンシャルは持っているとずっと言われてきました。でも、なかなか結果が出なかった。ポテンシャルがあるなら、だったら、それを出そうよって自分に対していつも思っていました。じゃあそれをどうやって出せるかといったら、試合に出て経験を積むしかない。もちろん練習も大事ですけど、練習でのパフォーマンス自体は良くて、トップチームと一緒にやれていたので、Bチームで4部の試合に出ている時でも『俺はトップチームの選手だ』っていう意識でやっていたんです。プライドは高かったんだと思います」
その翌年にエストレマドゥーラUDは3部から2部に昇格した。そこからは2番手扱いが続いたが、ある試合で突然スタメンで出ることになった。そして、それが「人生で一番悔しい試合」になった。
なぜなら、瑠伊のミスによる失点もあり、チームが負けたからだ。アルメンドラレホという約3万人の田舎町で、おそらく人口の半分ぐらいの人たちが週末のサッカーを楽しみに会場にやってくる程、町中がホームチームに関心を寄せていた。試合後は、批判する声もあり、家から出たくないと思ったというが、そういうことにも耐性がついて強くなっていった。
ただ、心に残った敗戦だったのは、それだけが理由ではなかった。
その時、チームは連敗を重ねてベテランGKへの批判は高まっていた。対戦相手は、1部から降格してきたジローナ。
瑠伊は、アップ直前まで、自分が試合に出るとはわからなかった。知らされていなかったのだ。直前までメンバー発表をしないやり方ではあったが、「準備しとけよ」という声がけなど、もしかしたら、と思える要素がなく、自分が出るとはまったく予想していなかったという。
「名前を呼ばれて、『あれ? 今、俺の名前だった?』と、二度見しちゃった感じでした」
それが教訓にもなり、サッカー人生においては意味のあるスペインでの“デビュー”戦になった。
瑠伊、21歳の出来事だった。
「本当に悔しかったし、次の試合でもチャンスがもらえたら違う自分を見せられたのにと思ったけど、チャンスはもらえませんでした。いつでも準備していたつもりでしたが、そうではなかった。僕の中で、あの試合は失敗でしたが、だからこそ、いつでも本当の準備をしておくことの大切さを知ることができました。後から聞いた話では、スペインリーグのプロ(1部、2部)で日本人GKで初めて試合に出た試合でもあったそうです」
そのシーズン、エストレマドゥーラUDは2部から3部に降格し、再びクラブの経済的な理由があり、次の移籍先を探すこととなった。
翌2020-21シーズンは、3部リーグのレクレアティーボ・ウェルバに所属したが、スタメンの座を確保するまでに至らず、瑠伊は、次のキャリアを考え、日本に戻る方向で行動することにした。
日本へ
欧州でのシーズン終了後の半年は、スペインと日本を行き来し、チームを探すためJクラブの練習に参加することになった。
瑠伊は、Jリーグでの試合経験はなかったが、FCロリアンに所属していた10代の頃から年代別の日本代表に入っていたため、その経歴から興味を持ってくれたクラブはいくつかあった。
「当時は、所属がなかった期間が半年ぐらいあったので、きちんと練習ができていなくて練習参加をするためにコンディションを上げることが必要でしたが、水戸ホーリーホックでは、いいパフォーマンスを発揮できました。他クラブからも声をかけてもらっていましたが、水戸の練習最終日にケガをしてしまったんです。そういう状況で、練習参加なしでもオファーをくださったJ2上位チームもありましたが、最終的に水戸にお世話になることになりました」
クラブを探していた期間も、「練習に参加すれば絶対にどこか獲ってくれるだろうと思っていた」という。それまでの経験から、自ら行動してチャンスを掴むということが、身体に染み込んでいるのだろう。
こうして、7年ぶりの日本で2022年からの2シーズンは、水戸ホーリーホックで過ごした。ちなみに、母方の曽祖父が水戸で生活していたことがあったことを祖父母から聞き不思議な縁を感じていたし、環境面でも人間関係も充実した時間が過ごせた。
初出場は、2022年4月3日J2リーグ第8節ザスパクサツ群馬との北関東ダービーで、これが瑠伊にとってのJリーグデビュー戦となった。残念ながら1対2で敗戦したが、次のホームゲームでも秋葉忠宏監督に起用され勝利すると、波に乗れたことが実感できた。
2年間で63試合に出場し、GKとしての経験を積むこともできたし、ピッチ外においても選手として必要な知識を得たり、人間力を養えるような機会に恵まれ、初めての日本でのプロ生活を送る上で適応するために支えられたという。
「小島(耕)社長、西村(卓朗)GM、秋葉(忠宏)監督、濱崎(芳己)監督、河野(高宏)GKコーチを始め、スタッフにも恵まれましたし、グラウンドもよく、フィジカル面やメディカルのサポートも整っていたので、準備に集中できました。食事や栄養の取り方も細かいことまで学んだし、セカンドキャリアを含めた人材育成のプログラムもすごく充実していたので、いろんなゲスト講師から話を聴く機会も多く、規模は小さくても選手を育てる環境が整っていました。個人的には、カズさん(中川賀之)というスタッフの方がいて、南米やスペインでのサッカー経験もあってスペイン語が話せたので、助けてもらいました。初出場の2週間ぐらい前に、自分にチャンスが巡ってくるだろうと思っていた試合でメンバー外になった時に、僕が感情的になってしまったことがあるんです。その時に、ロッカールームで僕を受け入れて話を聴いてくれて、『絶対に瑠伊が必要だし、俺たちのことを救ってくれると思っているから』と言葉をかけてくれて、それで気持ちが落ち着いたということもありました。感謝しています」
夢と目標
10代から欧州でキャリアを重ねた瑠伊は、U-17日本代表に始まり、2019年頃まで定期的に年代別代表に選出されていた。
GKというポジション柄、試合に出るチャンスには数多くは恵まれなかったが、とくに、U-20代表として本大会までメンバー入りした2017 FIFA U-20ワールドカップは、心に残ったし、U-21日本代表、U-22日本代表として2年連続参加したトゥーロン国際大会で試合に出た経験も含めて大事なキャリアになった。
また、その間にはフロンターレに縁がある、板倉滉、三好康児 、三笘薫、旗手怜央、伊藤達哉らとも一緒になる機会もあったし、さらには、FC東京で同学年のGKとしてしのぎを削った波多野豪、廣末陸とも、再会する運命も重なった。当然、彼らの存在にも改めて刺激を受けたし、さらに同世代のGKには、谷晃生、大迫敬介、小島亨介、オビ パウエル オビンナ、小久保玲央ブライアンらもいて、フランス代表ではなく「日本代表」を選んだ瑠伊にとっては、自分もさらに頑張ろうと思える貴重な時間になった。
「日本代表は、僕にとって夢というか、ひとつの大きな目標でした。そこの道に入れたということは、僕のキャリアにとって大きな経験でした。ライバルはいましたけど、負けている気がしなかったし、『俺の方がいいぞ』っていつも思っていました。もちろん課題もいっぱいあったけど、また一緒にやることがあったら、もっとできる自信があるし、必ず戻りたいと思っている場所です。自分が成長した姿をみんなにも見せたいなという想いもあります」
ある日、石野コーチから、こんなことを言われたという。
「俺が勝手に思ってることかもしれないけど、どうしたら瑠伊がA代表に行けるかなって思っているんだよなぁ」
それを聞いた時、瑠伊は涙が出そうだった。
「えっ?って思って。同じフロンターレで、同じピッチで毎日一緒に練習している立場のトモさんが、それを言ってくれたんだなぁって。小さい頃からの夢だった日本代表のことを、あんまり周囲の人や公の場では言ったことがありませんでした。今は、その夢は僕の現実の目標に変わりました。本当にうれしかったです」
瑠伊が選んだ背番号「98」は、自分が生まれ、日本代表が初めてワールドカップに出場し、母国開催でフランス代表が優勝した「1998年」という意味がある──。
エピローグ
まだ幼かった頃のことで、ぼんやりとしか記憶にはない。
父が初めて日本でサッカー観戦をした時に、瑠伊は一緒に連れて行ってもらった。
その時、GKのユニフォームだけ色が違って、「かっこいいな」と思ったことは記憶に残っている。
フランス人の父は、欧州でのスタジアムとはまったく違った、アットホームな雰囲気に、いい意味で驚きがあった。
最近知ったのは、それがどうやらフロンターレの試合だったということだ。
瑠伊はまだ幼く、記憶が曖昧なため、それが等々力だったかは分からない。
父に確かめてみたいと思っているが、父は瑠伊が試合に出るようになってから、等々力には基本的に来ていないのだという。
心配や緊張から、試合が終わって1時間程してから結果を確認するのが常だからだ。
そして、今回もうひとつわかったことがあった。
FC東京アカデミー出身の瑠伊だが、実はフロンターレU-13のGKセレクションにも合格していたという。
家から通うには遠いという理由もあり、先に合格していたFC東京でサッカーを続けることになった。
巡り巡って、縁が感じられる川崎フロンターレで成長を感じながら、上をめざす日々を送ることができている。
瑠伊は、そのことに幸せを感じている。
profile
[やまぐち・るい]
シュートへの鋭い反応と瞬発力を生かしたセービングが持ち味のGK。昨年8月にFC町田ゼルビアから期限付き移籍で加入し、2025シーズン完全移籍に移行した。スペインでプロキャリアをスタートさせ、2022年からJ2の水戸ホーリーホックで正GKとして活躍。多言語を操るマルチリンガルGKとして外国籍選手とのコミュニケーション面も問題なし。満を持してレギュラー獲得を狙う。
1998年5月28日、東京都新宿区生まれニックネーム:ルイ