テキスト/本田健介 写真:大堀 優(オフィシャル)
悩み、悩み、悩んで、でも結局は「なんとかなるさ」の精神で乗り越えてきた。
当時J3を戦っていた熊本で大卒としてキャリアをスタートさせた河原創は、熊本とともにJ2に昇格し、2023年にはJ1の鳥栖に移籍。そして昨夏、川崎に加わり、27歳で迎えた今年9月28日の柏戦で記念すべきJ1通算100試合出場を達成してみせた。
熊本出身の九州男児と言うべきか、口数は多くない。それでも、ひとつずつの言葉と真摯に向き合い、悩みながら紡ぎだす。日本トップカテゴリーのJ1で100試合に出場した感想を聞いた時もそうだった。
「うーん、そうですね……。難しいですね。ただ、僕はJ1の出場数にJ2とJ3の出場数を足せば200試合くらい出ているはずです。それでJ2、J3での100試合出場は恐らく3年ぐらいで届いたと思います。そして今年がJ1に挑戦して3年目。だから期間で言えば、順調には来ているのかなとは思います。ただ、特別に(試合数を)意識することもなかったですね。
感慨深さ? うーん……、J1での1年目、鳥栖でシーズンをスタートさせた時は、ここまで上手くいくとは思っていませんでした。でも鳥栖でも出続けさせてもらい、川崎に来てからも、すぐに試合に出させてもらえた。やっぱり周りには凄い選手が多く、移籍って難しさもあるなかで、出続けることができた。J1で100試合を迎えられたっていうのは、その部分で多少は感慨深さと言いますか、良かったなとは思いますね」
169センチ・65キロ、何よりの真骨頂はタフネスさであり、ボールを扱う技術も確かである。だからこそ、プロ1年目の熊本で開幕早々の3節に先発してから、鳥栖所属時の23年6月の京都戦で途中交代するまで連続フル出場記録は「153試合」を数えた。J3→J2→J1とカテゴリーを上げるなか、約3年半、リーグ戦では1試合も欠場せず、なおかつフル出場を続けたのだ。
本人は「意識してきたわけではないんですが、いつのまにか積み重なっていました。ただ、あまり記録として残っていないようで少し残念かな」と冗談っぽく笑ったが、高く評価されて然るべきである。
それこそ当時、鬼木達監督が指揮した川崎でも24年の8月20日に加入が発表されると、直後の9月1日の札幌戦で試合終盤に“川崎デビュー”を果たし、3日後のルヴァンカップ・甲府戦では2試合目にして先発フル出場。その後も、ピッチに立ち続け、適応力の高さを示した。
当時、ボランチでコンビを組んだ大島僚太も語っていた。
「とにかく走ってくれる。技術もそうですし、結構目が合いながら、お互いを見ながらプレーできている時間も多いかなと思います」
ただ、一方で本人は人知れず悩みも抱えてきた。


「自分の中ではあまり上手くいっていないのに、周りから見たら『そんなことない、上手くできているよ』って言ってもらえる。ギャップじゃないですけど、自己評価と周りの感覚が異なることは人より多い気はします。正直自分自身は今もしっくりきていなくて……」
川崎に加入してからの1年半は、より難解な、一方でワクワクするような迷路を進むような感覚だったのかもしれない。相手を見ながら自分の立ち位置を取り、技術力を大切にする川崎の伝統のサッカーに順応しながら、今季から指揮する長谷部茂利監督の下で守備戦術も体現する。ボランチとして多岐に渡るタスクを求められるからこそ、頭を使い続けてきた。
「個人的に納得のいくゲームは、ほとんどないですね。チームが勝ったとしても自分のパフォーマンスを聞かれると、なかなかプラスの言葉が出づらい。川崎に来る前の昨季の鳥栖ではチームとしてなかなか勝利を掴めなかったのでそこでも悩んでいましたし、ここ1、2年は、悩みというか、モヤモヤ感を抱えています。
それこそ今年はACL(エリート/準優勝)を戦って、(サウジアラビアから)こっちに戻ってきた後に、(山本)悠樹や(伊藤)達哉らはどんどん調子を上げていった。でも、自分はそうできていない。みんなのことを凄いと感じながら同時にもどかしい気持ちがあります。ACLを経験して一皮剥けた人とそうじゃない自分。うん……その差は大きいですね」
川崎での悩みの種は技術面が多いという。
「ここ最近は特に技術的な部分を考えていますね。練習中にいろいろ試したり、時には人に聞いたりもします。ただチームのことであればみんなと話しますが、僕個人のことは自分で考えることが多く、周りに聞く時は雑談ベースが中心な気もします。
例えば止める・蹴るで、本当に細かい面で言えば、『ボールを足のどこに当てているの?』と聞いたりしますが、やり方は人それぞれ違う。だから雑談のなかでヒントを得ている感じですかね」


河原と言えば、熊本、鳥栖、川崎とテクニカルなスタイルのクラブに所属してきたが、学生時代は「意外とそうでもないんですよね」と、技術面を意識することは少なかったという。
4人兄弟の末っ子である河原少年が、兄と姉の背を追うようにボールを蹴り始めたのは3歳の頃。小学校時代は地元の山鹿FCJでプレーし、中学生時代は、JFAアカデミー熊本宇城で寮生活も経験。そして高校は熊本の強豪・大津高校へと進学した。
大津高では現監督の山城朋大コーチらから指導も受けた。
「キックの部分に関してはトモさん(山城コーチ)に一番教えてもらった印象があります。様々な蹴り方を練習しました。当時キックには結構時間を割いたと思います」
有名な話ではあるが、大津高では卒業後にG大阪へ進んだ野田裕喜(現・柏)、一美和成(現・岡山)と同級生であったが、「プロになりたいという気持ちはありましたが、今すぐは無理だと思っていたので、シンプルにふたりに対しては『凄いな』という感情しかなかった」と振り返る。
その後の4年、福岡大では自らの強みを磨いた。
「割とちっちゃい頃から走れるほうではあったんです。でも、高校もそうでしたが、大学ではさらに走り込みましたね。チームとして走力を活かしたサッカーをやっていたのは大きかったです」
一方で大学時代は苦しい時期も経験した。
「挫折ですか? ありましたね。大学2年の時、それまでは一応トップチームでプレーさせてもらえていたんです。でも、自分たちの代の大学選抜のような活動に参加させてもらい、大学に帰ったら、トップチームのメンバーから外されてしまった。
それで下のチームに行き、記憶が定かではないんですが、リーグの規定みたいなものがあって、上のリーグで何試合以上か、何分以上か出場していると、Iリーグ(インディペンデンスリーグ/トップチームに所属していない多くの選手に公式戦の出場機会を提供するためのリーグ)には出られないみたいなルールがあったんです。
それで僕はIリーグにも出られず、そこから半年はまったく試合に絡めなかった。かなりしんどかったですね。正直、小、中、高と試合にはずっと出られていたので、初めての経験。練習だけする毎日で……。あの時は『サッカーを辞めるかもしれないな』と思っていました。『もういいかな』って。何のためにサッカーをしているのか分からなくなっちゃったんです。
その時はBチームのコーチの方にいろいろアドバイスをもらいました。すると、2年生の冬、トップチームがインカレの試合を戦った次の日、試合に出なかったメンバーの練習に人が足りないからって呼んでもらえたんです。そこで評価してもらえて、次の年、トップチームに上がることができた。あのままだったら、僕のサッカー人生どうなっていたか分からないですね」



1997年度生まれと言えば、三笘薫、旗手怜央、瀬古樹、イサカ・ゼイン、オビ・パウエル・オビンナ、森下龍矢、田中駿汰、山川哲史、中村帆高、紺野和也、金子拓郎、高嶺朋樹、林大地、川崎でチームメイトになった山本悠樹ら大学界には、それこそ挙げればキリがないほど錚々たるメンバーが揃っていた。
「僕はデンソーカップに4年生の時に出させてもらい、そのあとのアメリカ遠征にも参加しました。そのチームには(旗手)怜央や(イサカ・)ゼインらがいましたね。(山本)悠樹とも高校時代に試合をしたことがありました。そういう同世代の選手がどんどんプロ入りを決めていく。それもあって、僕も熊本からオファーをいただき、プロになれた時はホッとしました」
その熊本では河原と言えばよく語られる衝撃的な出会いがあった。そう、Jリーグ切っての“魅せるサッカー”を志向する大木武監督の下でプレーすることになったのだ。
「みなさんご存じだと思いますが、大木さんは本当にインパクトが強かった(笑)。でも、今の自分のプレースタイルのほぼほぼの部分を作ってくれたのは大木さんだと思います」
当時はコロナ禍真っ只中でリーグが中断するなど苦労もあったが、前述のとおり、この熊本から河原の“連続フル出場記録”がスタートすることになった。
「僕が加入した時に大木さんも就任され、しかも熊本には年齢が近い選手も多かったので、僕にとってはすごく良い環境でした。でも、1年目の半分くらいは大木さんに怒られていましたよ(笑)。だから大卒1年目であそこまで起用してもらえるとは思っていなかったです。
どんなことで怒られたか? うーん、チームとしてのやり方の部分が多かった印象ですが、技術面を含めて、もうすべてのことで指導をしてもらいました。大木さんは『勝っても負けても次のゲームが大事』ってよく言っていましたが、その大切さは年齢を重ねるごとにより理解できるようになっています。大木さんの言葉って『ここでつながるのか』と、今になって真の意味に気付くことも多いんです。
大木さんの言葉で一番記憶に残っているもの? うーん、なんだろうな。なかなか他では聞くことのない言葉ばかりでしたからね。でも、具体的なフレーズではないのですが、試合に出なかった次の日などに練習試合があったりする時に、本来はダメなんですが、どうしてもモチベーションが上がらないことがある。ただ、そういう時こそアピールのチャンスであり、気を抜かず、公式戦と同じように準備して、同じテンションで練習試合に臨む。その重要性は大木さんに教えてもらいました。だからこそ、少し面倒だと感じてしまうことほど大事だと考えるようにもなりましたね」



河原はその後、J1の鳥栖、そして24年夏に残留争いに巻き込まれた鳥栖の状況を鑑みながら苦渋の決断として、さらなる自身の進化を求めて川崎へ移籍。その3クラブで出場を続けてこられたのは「チーム選びと人に恵まれたからだとは思います」と答える。
どのチームでも全力を尽くしたことは言わずもがなだが、移籍を決断するうえでは、判断基準もあった。
「自分は移籍となれば結構悩むほうですが、チーム選びに関しては、オファーをいただけた時に、僭越ですが、チームの戦い方が自分の特長に合うか、どういうサッカーを目指しているのか、その監督の考え方といった部分を何より考慮するようにはしています。
一番はつなぐ、ボールを大事にするサッカーと言いますか、その表現が合っているかちょっと分からないですが、よく言われるパスサッカーがベースになっているか。そういうスタイルのチームでより高いレベルを目指したいと、熊本、鳥栖、川崎でプレーさせてもらいました。
それと同時に僕は選手にとって一番大事なのは試合に出ることだと思っています。だから同じポジションにどんな選手がいるかも意識しました。その点では川崎に移籍する際は正直自信がなかったんです。(鳥栖時代のチームメイトで現在は川崎の強化部の森谷)賢太郎くんにも相談しましたが、川崎はボランチにレベルの高い選手が揃っていましたから。でも、もし試合に出られなくても、川崎であれば貴重な経験を積めると考え、言葉はあれですが、賭けにも近い選択として、最後は“なんとかなる”って思って移籍を決めました。
そう考えると、僕は迷った時は“なんとかなる”って進むことが多い気がしますね。それでなんとかならなかった時が怖いですが(笑)」
悩みに悩んで、それでも最後はポジティブに“なんとかなるさ”と前を向いて挑戦し続ける。それが河原創の生き方なのだろう。

そしてもうひとつ大事にしている考え方がある。“変わることを恐れない”。そのモットーは実は今季も活かされていた。
「技術的なところもそうですけど、例えば今年でガラっと変えたのはこれまでとは異なる方法で筋トレを始めたこと。シンプルに“強さ”が欲しいっていう想いがあったんです。強さってフィジカルもそうなんですが、身体をより自由に動かせるような強度と言いますか。だから球際だけでなく、シンプルなスピードにつながったり、いろんな部分でパワーアップしたいと今年、キャンプの時から取り組み始めました。
やると身体が一時的に重くなるかもしれないと言われていましたが、まずは試しにやってみようと。実際に身体が重いなと感じる時期はあったんです。今はその時期を抜けたなという感覚ですが、見てくださっている方には分からなかったかもしれません。自分の感覚的には身体が動かない時期があって、仕方ないと思いつつ、コーチらにも相談して、やり方を模索していました。
それこそナイターに試合がある時は午前中も少しトレーニングをしたり、試合が日中の時は前日に取り組んだり、いろいろ試しながらでしたね。記憶は曖昧ですが、身体が重たく感じたのは、ACLの前くらいかもしれないです。それこそ夏前か夏に入った時もちょっと身体が重いな、動かないなと思いながらプレーしていました」
黒子のように誰よりも走り、ボールに絡み、守備もする。大きくスポットライトを浴びることは限られている印象だが、縁の下の力持ちとして欠かせない存在――。そんなプレースタイルのように、今季の河原はそっと進化を続けてきた。
さらに川崎に来て、目指す選手像、評価してもらいたいポイントも変化してきたという。
「走力に関しては内容が伴っていれば良いのですが、僕自身、内容があまり伴っていないことが多い。無駄が多いっていう考え方もできて、だから『凄く走っている』と評価していただけるのは嬉しいですし、多く走れるに越したことはないのですが、それが効果的なのかって考えると、そうでもないのかなって川崎に来てから、より考えるようになりました。
要は動けるのは良いのですが、動き過ぎて、味方がいてほしいところにポジションを取れていなかったり、パスコースや味方が使いたいスペースを消してしまっていることもある。守備も自分ですべてやれるなら良いですけど、味方に指示して動いてもらったほうが良い時だってある。だから最近、走力を評価していただく時は、逆にそれはどうなのかなって考えるようにもなりました。
だから、なんて言うんですかね、今は目に見えないところを褒められたほうが嬉しいのかもしれないです。目立たないんだけど、味方を助ける位置にいたり、シンプルなんだけど局面を変えるパスを出したり、サッカーのツボを押さえていると言いますか。それをしっかり考えてできるようになると良い。僕は自然にそうなっていることが多いので。
その都度、ベストの選択を外さないように。様々なタイプのボランチがいて面白いと思いますが、難しいですよね。結果や数字で可視化できるような面であれば良いのですが、今話した部分は見えづらい。(ボランチで組む山本)悠樹らは試合中に『相手がこうなっているから、こうしたほうが良い』みたいな会話をよくしてくれますが、僕もああいう視野や能力が欲しい(笑)。
僕は必死に頑張っているだけなので、状況を読めるようによりサッカーを理解したいです。川崎で言えばアキさん(家長昭博)らもそうで、ひとりで流れを読んで変えられる。凄いなと思いますよ。だから技術も戦術面もいろんな人からより吸収したいんです」
チームを操るような総合力の高いMFへ。そんなプレーを体現してきたレジェンド・中村憲剛からも期待されている。
「ケンゴさんからは『喋って人を動かせるように』とは、よく言われています。『やれるんだから、絶対できるんだから』って背中を押してもらっています」
27歳。焦りはないが、「時間はなくなってきた。年齢との勝負」という想いも強まってきた。
「プロに入った時は、30歳くらいまでかなと漠然とイメージしていましたし、現代サッカーではフィジカルが重視される分、ここからの伸びを考えれば僕には時間がない。今は様々なカテゴリーがあってプレーをし続けられる環境も増えていますが、僕はできれば高いところ、日本で言えばJ1で長くやりたい。それが今のサッカー人生の目標なのかもしれないです。そのためにも悩みがあるっていうのは逆に“伸びしろ”として良いことなのかもしれない。いろいろ試しながら、ですね」
河原は常に自身に矢印を向け、「なんとかなる」の精神で挑み続けてきた。だからこそ同世代の三笘らの世界的な活躍に対して抱く感情も「ライバル意識や悔しさではなく、シンプルに凄いな」というものだった。
インタビューの前日にはちょうど日本代表がブラジルを破る歴史的な勝利を挙げていたが、あのブルーのユニホームを狙える場所には「自分はほど遠い」と客観的に理解もしている。
それでも“なんとかなる”と壁を越え続けた先にさらなる輝かしい未来が待っているのではないか。ピッチに立ち続ける彼の姿にはそんな期待をかけたくなる輝きがある。





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[かわはら・そう]
ピッチを駆け回り相手の攻撃の芽を摘み取るハードワーカー。チームの攻守のつなげるリンクマンでもある。90分間を通してアベレージの高いプレーができ、試合に出続けても使い減りしない体力も魅力。
1998年3月13日、熊本県山鹿市生まれニックネーム:ソウ
