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向島建 アーカイブ

2004年01月20日

移籍

2004年がスタートしました。ご挨拶が遅くなりましたが、本年も川崎フロンターレを宜しくお願いいたします。昨年は、この「Tatsuru's チェック!」に目を通していただき誠にありがとうございました。今年は試合に関することだけをチェックするのではなくサッカーに関するあらゆる面に、もっと幅広く触れていきたいと思います。是非、皆さんから取り上げてほしいことやご意見、ご感想等をいただけたら幸いです。現役選手として経験してきたこと、フロントスタッフとしてこの2年間見て来たことを生かし、少しでも皆さんにわかりやすく伝えられるよう努力します。今年も引き続きこのオフィシャルホームページ上でお会いし、このコーナーをチェック!してください。
2004年シーズンこそ川崎フロンターレがJ1復帰できるようよう、皆さんの変わらぬ暖かい御声援をお願いいたします。
川崎フロンターレは2004年シーズンのJ1昇格に向け着々と準備を進めています。
昨年、J2リーグの中でも一番実力はあったにもかかわらず、3位(勝点1差)という悔しい結果に終わりました。J1の舞台から降格し、気がつけばJ2シーズン4年目に突入することになりました。サポーターも年々増えていて、そろそろJ1復帰しなければ、J2に染まってしまう厳しい時期になりました。

毎年、J1、J2の各チームがリーグが終了する頃から11月30日までに来季(翌年2月1日から)チームと契約するかしないかを選手に伝える「契約更新に関する通知書」を通達する義務があります。そして来期契約しない選手(0円提示)は移籍リストに掲載されチームを探すことになり、無ければ引退を余儀なくされるという厳しい状況となります。また、来期も契約したい選手とは12月からすみやかに契約交渉の場を設けます。1年間肉体的にも精神的にもハードな選手にとって1年に1回だけフロンとじっくり時間をかけて話し合うことが出来る時期であり、この契約交渉によってお互いが納得して初めて来季チームでプレーすることを約束し、「統一契約書」にサインをします。私もプロサッカー選手として11回ほど毎年契約交渉を行ってきました。やはり選手として1年の評価をしっかりと聞き、納得いく話し合いの末、チームと握手を交わすまでは安心してオフを過ごすことは出来ませんでした。ただチームによっては契約交渉の仕方が様々で、納得いく話し合いができず泣く泣くサインする選手や移籍(期限付き移籍)に発展することもよくあります。それと同時にチームは補強も進めており、他チームからの移籍で獲得する選手とも交渉を進め、新たに選手を獲得しチーム力アップを図ります。いずれにせよ、いろんなケースで移籍に発展し移籍金というものが発生します。移籍金は選手が所属していたクラブと移籍先のクラブとの話し合いにより金額が決定されます。移籍金が発生しない場合もあります。日本サッカー協会に規定されている移籍金の算出基準は上限として設定されており、すべての移籍に適用されます。よく「レンタル移籍」といわれることがありますが、正しくは「期限付き移籍」で一定の期間を過ぎた後、元のチームに戻る移籍のことをいいます。例えば昨年までヴァンフォーレ甲府に期限付き移籍していた大石選手は2年間の期限終了とともに今年フロンターレに復帰しました。今年フロンターレの注目の移籍選手ではJ1に昇格したアルビレックス新潟から昨年度得点王のマルクスを獲得しました。鹿島アントラーズからは元日本代表の相馬を獲得しています。彼らの素晴らしい経験をチームに生かせれば昇格に大きく近づくはずです。

1997年に私は、清水エスパルスから川崎フロンターレ(富士通川崎)に移籍しました。プロのサッカー選手にとって移籍はよくある当たり前のことのようですが、選手にとっては家族の問題や違った環境に身を置くことで慣れるかどうか?選手たちと上手くやっていけるか?試合に果たして出場できるか?移籍は大きな問題です。当時JFLだったフロンターレは、Jリーグに昇格を目指し、Jリーグでプレー経験がある10数名近くの選手を補強しました。私自身もそのうちの一人でJリーグから下のJFLリーグでプレーすることや新たなチームに移籍することで、やる気十分の半面不安などもありましたが、自分を必要としてくれる新たな環境でプレーすることはサッカー選手にとって一番幸せなことであり、自分自身がこれから更にステップアップするためにはありがたい話で、いいタイミングだったと思います。新しい環境でプレーすることの新鮮さと、もう一度自分を見つめ直すいい機会でした。エスパルス(5年間)という居心地のよい環境がサッカー選手としての成長をストップさせてしまっていたような気がします。川崎フロンターレ(富士通川崎)に移籍してから、元々チームにいた選手たちが温かく移籍選手を迎え入れてくれたお陰で、直ぐにチームになじむことができ、迷いも不安もなくサッカーに専念し、いい雰囲気でプレーできました。プレースタイルというものは変わらなくても、移籍することでチームが目指す目標や自分自身の目標や夢がもう一度自分の中でしっかりと持てたこと、精神的にも前向きになり大きく変わった自分がそこにはありました。チームの最年長選手ということから、今までJ1で経験してきた様々なことでプラスになることは当然JFLのこのチームに伝える必要があり、進んで若い選手に感じてもらおうと、言葉だけでなくグラウンドで表現してきました。移籍することは自分がただそのチームに移っただけのことではなく、他の選手たちやチームに関わる人たち、そして家族や自分を応援してくれている人たちにも大きく影響を与えるものです。今年新潟から移籍してきたマルクスはJ2で2年連続得点王に輝きチームのJ1昇格に大きく貢献しフロンターレに移籍してきました。今までの実績から当然チームはマルクスに大きな期待を寄せることでしょう。彼自身も「チームのためサポーターのためにたくさんのゴールを奪いJ1昇格に貢献したい、個人的にはジュニーニョと競い3年連続得点王を目指しベストを尽くす」と早くもしっかりとした目標を掲げてくれました。彼の移籍によってポジション争いも熾烈になるが、特にFWの若い選手たちは何か学ぶものがあるのではないでしょうか。

移籍は選手にとって転機とも言えるほどの大事な選択であり、移籍先のチームにとっても選手への期待は大きく、その期待に答えるのも裏切るのも自分自身の努力次第になります。選手自信の特徴でもあるプレーを変える必要はありませんが、今までのチームでの考えより、これからのチームでの考え方や、やり方に耳を傾け、お互いが理解し合って、どんな仲間とでも合わせることができなければいい選手とはいえません。監督が望むものと異なっていたり、他の選手と合わなかったり、いつになっても選手の特徴がチームに生かせなければ当然試合のできる場を求めてまた移籍を繰り返すことになる。選手とチームの双方にとって移籍がいい結果となれば、こんな素晴らしいことはないでしょう。

2004年02月06日

ユニフォーム

2004年シーズン、川崎フロンターレのユニフォームが新たにモデルチェンジしました。1stユニフォームは水色と黒を基調として、それほど変わりはありませんが肩の部分がそれぞれ互いの色にチェンジして、より強くフロンターレのカラーを前面に出したデザインになりました。2ndユニフォームは5年ぶりに変更され、白を基調として、水色と黒のラインが左肩からタスキがけになっており、クラブ一丸となって戦うことをイメージしています。ユニフォームを一新したことで選手たちも新たな気持ちで頑張ってほしいと思います。きっとこのユニホームがJ1復帰の記念になることでしょう。
 最近のユニフォームは、カラーも豊富でデザインが奇抜だったり、素材も考えられて作られています。夏場に対してはメッシュ素材を利用していて通気性がよかったり、試合中相手に引っ張られることがないようサイクルスポーツのシャツをイメージして、肌にフィットするようなものだったり工夫されています。カメルーン代表が2002年アフリカ・ネーションズカップで暑さ対策のためノースリーブのユニフォームを着用し、相手に引っ張られたときに主審にわかりやすいように、非常に伸びやすく切れやすい素材を使っていて話題になりました。結局、暑い日本でのW杯では着用が認められなかったのですが、どのメーカーも選手たちがいいパフォーマンスを発揮できるよう心がけ、常に研究されているようです。そして各国やクラブチームのユニフォームにもしっかりとした意味があり、例えば日本代表の青は「日本の国土を象徴する海と空、スピード感」を、白は「フェアープレー精神の象徴、信頼感」を、赤は「日本国旗、情熱の象徴」を表しています。2002W杯では日本の象徴である富士山がデザインコンセプトされ作られました。
 私がユニフォームで印象に残っていることは、1974年のW杯決勝を深夜、父と眠い目をこすりながら見た、「西ドイツvsオランダ」です。シンプルな西ドイツの白に対してオランダの鮮やかなオレンジが緑の芝生の上に実に映え、とても美しかったことを思い出します。世界の人たちが注目したW杯決勝という素晴らしい舞台で、オレンジ色のユニフォームを着たクライフというスーパースターのプレーを始めて見た瞬間だったため、特別印象に残っていたのかもしれません。子供ながらに「あんなオレンジ色のかっこいいユニフォームを着てプレーしてみたいな!」と、どこかで願っていたのかも知れませんね・・・。

私は藤枝市の青島サッカースポーツ少年団で本格的にサッカーをスターさせたとき、人生で最初にユニフォームというみんなと揃いのものを身につけ選手としてグランドに立てたとき、「サッカーの楽しさ!選手として試合ができる喜び!」というものが芽生えました。今でも青と白の背番号15のユニフォームを見ると、当時小柄だった私は、ユニフォームが大きすぎ母に袖を短く縫ってもらいプレーしていたことを思い出します。そして、憧れだった静岡学園高校では、緑のユニフォームを監督から渡されたとき、OBが築き上げてきた伝統の重みを感じさせられました。そして清水エスパルスというゼロからスタートのチームでは真新しい奇抜なデザインのオレンジに驚かされ、しかも静岡には空港もないのにスポンサーが「JAL」、それでも選手たちは何の違和感もなくプレーしていました。そして川崎フロンターレに移籍し、水色と黒の縦じまのユニフォームを着たとき、まず思ったことは、「このユニフォームでJ1に昇格しなければ!」そのために川崎に呼ばれたんだと自分の役目をはっきりと認識させられました。
 サッカー選手は、ユニフォームを着て大舞台でプレーすることを誰もが望みます。当たり前のことかも知れませんが、戦う準備をしていても試合に出られなければ、誰からもその姿を見てもらうことはできず評価されません。ユニフォームを着てグランドでプレーすることがどんなに大事か、自分の歴史を作って行くことができます。どんなにデザインが悪くても、地味でもチームが勝ち続け強くなること、素晴らしい選手が出てくることでユニフォームのイメージは変わってきます。ユニフォームは「あの時代のあんなサッカー、あの選手のあんなプレーが懐かしいな!」などと振り返えることができ、サッカーを愛する人にとって、思い出や感動の場面を蘇らせることができます。それだけユニフォームはサッカーの歴史を作り辿るうえで、切り離すことはできない貴重なものなのです。そして2002W杯では多くの人たちがユニフォームを着て応援したり街を歩く姿を見かけました。選手が試合で身につけているもので一番グッズ化されているため、プレーしている選手と同じものを身につけてみたいと思う人も多かったのでしょう。お気に入りのユニフォームを着て共に戦い、応援することで、選手たちは普段以上のパフォーマンスを出せるのです。ユニフォームは人それぞれ持つ意味があります。チームを応援するために購入する人、スーパースターが好きでその選手のものを購入する人、ファッション性で購入し着る人、海外に行ったお土産として購入する人、サッカー仲間でチームのユニフォームを作る人など様々です。そして昨年、私自身が初めて『Tatsuru's Wear!』というユニフォームを作り、プレーすることが出来ました。
 2003年7月から2004年1月までの間、このユニフォームを着用しいろいろな活動をすることが出来ました。
 このユニフォームの胸スポンサーは「FUNKY'S」で、株式会社エフ・トゥー・ワンさんです。ホームゲームのスタジアムなどで出店している黄色い車のホットドッグ屋さんです。背中のスポンサーは「World Eleven」で、株式会社ゼット・プロジェクトさんです。ワールドサッカーという携帯サッカーサイトが有名です。左袖は「魚建」さんです。平間商店街にある魚屋さんで、「建」という字が同じということもあり、現役時代から応援していただいています。そして右袖には「Tatsuru's チェック!」を入れさせていただきました。そして、チームユニフォームスポンサーの「アシックス」さんの協力で他にない特別なユニフォームが誕生しました。
 そもそもこの『Tatsuru's Wear !』を作ろうと思ったきっかけは、フットサルの日本代表候補に選出されたことです。フロンターレがローソンカップなどフットサルに力を入れていることもあり、最近競技人口の多いこのスポーツで自分自身がチームに何か役に立てないか?そんな思いが、前々から誘われていた日本代表候補という場での参加を決めました。自分自身もう一度、身体を鍛え、作り上げてフットサルで燃えてみたい、フットサルというこれからまだまだ伸びていくであろう競技に興味があったことも事実です。クラブ関係者の皆さんの協力や理解があったことで、初めてフットサルに参加することができました。しかし、現役を引退してプロサッカー選手という状態から1年以上が経っていることや、37歳を越える年齢からの復活は私にとって想像以上に大変なことでした。

 2003年2月末に代表コーチから代表候補選出の話がありました。3月1日からトレーニングを開始し、3月30日の合宿までにプレーできる身体を作りらなければいけないという厳しいものでした。自分の業務もあるため、自宅に帰ってから近くの公園でランニングからスタートしました。スクール指導終了後には下野毛グランドでアジリティやスピード系のトレーニングをしたり、若いコーチを誘って多摩川をランニングしたり、24時まで使用できるスポーツクラブで筋力トレーニング中心の毎日が続きました。自分をどこまで追い込めれば戦える状態になるかは、長年の経験により身体が覚えているため、苦しいことは承知で自分を苛めました。スケジュール的にも体力的にもかなりハードな状態は覚悟していましたが、現役時代のように身体を動かしている生活は意外と充実していて、楽しい日々を送ることが出来ました。

 Jリーグでプレーしていた選手がフットサルをはじめたことで、ちょっとした話題になり取材が入ってくるようになりました。私自身フットサルチームには所属していないため、他の選手がチームユニフォームを着用する中、取材で着用するチームユニフォームは私には存在しませんでした。そこで自分なりの特別なものを作り形としても残したい、作るだけでなく露出してしまおう、いろんな活動をこのユニフォームで展開していこうと思い、チーム関係者やスポンサーさんのご好意により『Tatsuru's Wear !』が完成しました。
ユニフォームを一から作成する過程は、私にとって楽しい時間でもあり、少しずつ出来上がっていく様子は、これから展開していく活動が頭の中でイメージとして少しずつ沸いてきて、自分のチームが出来上がっていくようなものでした。完成が待ち遠しく、想像するだけでわくわくしてきたのを覚えています。
『Tatsuru's Wear !』 完成のお披露目は、7月13日のファン感謝デーでのサッカーコーナーでした。この日以降様々な活動を行ってきました。主なところでは8月30日の「FULLCAST CUP FUTSAL CHAMPIONSHIP 2003」(等々力アリーナ)。フロンターレ創設当初の選手中心に集まっていただき、OBドリームチーム(向島建、中西哲生、ベッチーニョ、野口幸司、桂秀樹、戸倉健一郎、長谷部茂利、源平貴久、高田栄二、笹原義巳、竹内弘明)を結成し大会に出場しました。勿論このユニフォームを全員着用しプレーしました。懐かしい選手たちが集まり、一つのチームとして真剣に楽しくプレーできました。その後もフットサルのエキシビジョンマッチは2試合行いました。富士通地方工場サッカー教室にはコーチ3名で参加しました。10月12日長野、10月25日岩手、10月26日会津若松、11月1日小山で行い。コーチ全員がユニフォームを着用しプロのチーム、選手のプレーを少しでも身近で感じてもらおうと行いました。テレビではファイトフロンターレにおいてTTSコーナー、ITSCOMインタビュー、そしてSKY PerfectTV ケーブルTVなどで放送しているVieWsicという音楽番組で「サッカルチョ7/チコ・チェアーのフットサルチームを作ろう!」でコーチ役として出演し、共演者であるチコ・チェアーというサッカー未経験者で、デビューしたての4人組みミュージシャンにもフットサルの試合でユニフォームを着用していただきました。当初試合は練習着で行う方向でしたが、揃いのユニフォームを着て試合をやることで選手は気持ちが高まり、試合をすることの楽しさや緊張感を実感できると思い、ドラマのクライマックスにと、ユニフォームを用意することにしました。コーチとしてサッカー未経験の彼らと半年間付き合ってきて、サッカーやフットサルを純粋に好きになってくれたミュージシャンの彼らに、自分からのプレゼントにしました。彼らも出来の良さには感激し、等々力でのトップチームの試合にはそれを着て応援に駆けつけてくれました。

 この『Tatsuru's Wear !』により、いろんな活動ができ、昔のチームメイトやたくさんの子供たち、サッカーやフットサルに関わらず、いろんな人たちと知り合うことができました。また自分自身のユニフォームを着用することで気持ちもフレッシュになり、充実した指導や楽しい生き生きとしたプレーを魅せることができ、今までにない新しい自分を出すことができました。

 2004年1月31日をもって、『Tatsuru's Wear !』の契約を終えることになります。スポンサーである株式会社エフ・トゥー・ワンさん、株式会社ゼット・プロジェクトさん、「魚建」さん、本当にありがとうございました。サッカーを始めたときのユニフォームや伝統の静岡学園高校のもの、社会人として川崎で初めてプレーした東芝のもの、Jリーガーとしてプレーできた清水エスパルスのもの、93年Jリーグのオールスター戦のもの、J1昇格や長い現役生活を終えることになった川崎フロンターレのものなど、この『Tatsuru's Wear !』も、同じように私にとって思い出に残る一つとなるでしょう。
特別な素晴らしい『Tatsuru's Wear !』を着て活動を出来たことを心から感謝したいと思います。

『いつの日か、このホームタウン川崎で、フロンターレのユニフォームを着ている人で溢れるときが来ることを願っています・・・』

2004年02月20日

感動を与えるということ!

サッカーは、世界でも一番盛んなスポーツだということは言うまでもない。世界のサッカー人口は約2億5千万人ともいわれ、プレーをしなくてもサッカーが好きな人は5億人以上いるのではとも言われている。それは、W杯という大会の歴史や偉大さを見てもわかるだろう。先進国であっても、発展途上国であっても、たとえ文化が違っても、言葉が通じなくても、肌の色が違っても、その場所が狭かろうがサッカーボール一個あれば、みんなが楽しめる。よく海外に行く人が多いが、サッカーの話題でコミュニケーションをとることもいいだろう、その場にサッカーボールを転がせば、その国の人たちと交流が図れ、サッカーの素晴らしさを感じることができるだろう。そして、サッカーの素晴らしさや感動といったものは、けっしてW杯やチャンピオンズリーグなど世界のレベルだけでなく、JリーグやLリーグや高校サッカーなどいろんなレベルで心を動かされる場面を味わうことができる。サッカーを含めてスポーツは感動を与えてくれるが、その感じ方は人それぞれ違う。
私がJリーグの清水エスパルスでプレーしていたとき、サポーターからたくさんの手紙をいただいたり、いろんな話を聞かされたことがある。その内容で多かったのは、「向島さんのプレーを見て感動しました!」というものだった。サッカーをはじめたばかりの子供たちからは、「向島さんのようになりたい!」というものや、サッカーをしていない女の子たちからも、「自分はなぜ、物事を投げてしまうのだろう、あんなに頑張っている人がいるのに!」という気持ちになるのです。という話も聞いた。また、当時貰った手紙の御礼として、よくサイン入りポストカードを返送していましたが、遠方の神戸のファンから、そのポストカードが阪神大震災の翌日に届けられたことで驚き、とても勇気を貰いました、という話もあった。フロンターレに来てからも看護学生からは、「患者さんが亡くなって辛い思いをしたとき、向島選手のプレーを見て励まされました」という手紙を貰ったこともあった。一生懸命プレーしている姿が、そんな風に映るのであれば、サッカーをやっていて、つくづくよかったと思います。サッカー選手にとって自分のプレーで感動してもらえるなんてこんなに嬉しいことはない。逆に選手として、「感動を与えられなくなったら終わりだな!」とも思い、自分は多くの人に注目され、期待され、見られているということを感じ、もっとグランドで感動してもらうために頑張ろう!という気持ちになった。長く現役を続けてこられたのも、いろんな人たちに支えられているという思いがあったからで、現役最後の試合となった、「清水エスパルスvs川崎フロンターレ」では、試合終了後、両サポーターから温かい拍手をいただき、自然と涙が溢れ出て、サッカー選手として幸せだったことをあらためて実感した。

 プロサッカー選手は、スターとして注目され、試合で見る華やかな部分の反面、日頃から激しいトレーニングやチーム内での競争を繰り返し、試合の結果がいつでもつきまとい、肉体的にも精神的にも厳しい状態のときがよくある。そんなとき選手それぞれリフレッシュのしかたや、考えたオフの過ごしかたがある。当時、私は普段からチームメートやサッカー関係者とも、よく話しをし、食事などしてコミュニケーションをとってきましたが、それ以外のプロといえる人たちとも積極的に時間を作るように心がけた。例えば、他のプロスポーツ選手やミュージシャンの話しなど、何かを専門に行い勝負していて、それを楽しんでいる人の話しを聞くことが好きで、『本物!』を見たり聞いたり感じるということが、どんなに自分にとってパワーを貰えるか、自分にプラスになるか、とても大事なことだと思っていました。勿論サッカーにおいても実際にスタジアムで『本物!』を見るように心がけ、『2002W杯KOREA JAPAN』で、世界の一流選手たちによる多くの素晴らしいプレーを実際にスタジアムに行き感動を味わうことができた。日本だけでなく韓国まで足を運び、「韓国vsイタリア」の強烈な試合も見ることができた。また、サッカー以外のことでも、映画であればビデオだけではなく実際に映画館で見る。ミュージシャンであればCDだけでなく実際にコンサートに行ってライブを楽しむ。プロといえる人たちの考えや、自分のスタイルを持って一生懸命取り組んでいる姿を直接その場で感じることで、自分にとって励みになり、頑張ろうという気持ちになれるからだ。現在でもその気持ちは変わらず、できることなら『本物』を見て鳥肌が立つくらい!感動したいし、自分の子供たちにも積極的に見せてあげようと思っている。機械と人とでは本当の感動は得られない!

 最近、Viewsic の「サッカルチョ7」というドラマで共演した4人組ミュージシャン、『チコ・チェアー』のライブに行ってきた。大物ミュージシャンのライブにはよく行ったが、デビューしたばかりのミュージシャンは彼らが初めてだ。ライブハウスという圧迫感のある狭いところで、先に始まっている、知らないミュージシャンを見ながら、果たしてどんなライブになるか、楽しめるのか、正直ここに来てよかったのか不安もあった。しかし、彼らの登場でその不安は一変した。ドラマで共演していたこともあり、彼らの人柄のよさはよく知っていた。彼らのドラマで見せていた表情とはまた違い、音楽で真剣に勝負している姿は輝いていてかっこよく、まさにプロのミュージシャンだった。曲も素晴らしかったが、彼らと過ごした時間があったことが、自分に伝わりやすかったこともあり、会場は狭くてもライブで彼らとの素晴らしい一体感を味わうことができた。このライブのタイトルどおりチコ・チェアーの「一所懸命!」が伝わり、久々に感動した。人と人とがふれあうことができれば、本当の感動が生まれる!これからもチコ・チェアーを応援し、彼らのライブにより自分自身が、より一層頑張るためのパワーを貰っていくことになるだろう。
■チコ☆サイト+チコチェアー chicochair official website http://chicochair.power.ne.jp/ 

 昨年、川崎フロンターレは惜しくもJ1復帰は果たせなかったが、たくさんのサポーターが応援してくれている前で、多くの感動する場面を見せることができた。2004・J2シーズンに向けて選手の補強も整い、昨年以上にJ1を目指す気持ちは強く、素晴らしい試合が期待できそうだ。新たに加入した実力ある選手たちのプレーも気になり早く見たい。是非、等々力競技場に足を運んで実際にフロンターレの選手たちのサッカーを、その目・身体で思う存分体感してほしい。そして、選手の特徴やプレースタイルなど情報を少しでも知っておくことは、試合をもっと楽しく見ることができる材料になる。そして、選手が忘れてはいけないことは、お客さんは、お金を払って試合を見に来てくれているかぎり、グランドで感動を与えなくてはいけないということだ。いつまでも感動を与えられる選手でいるために、普段から努力を惜しまないでほしい。J1に向かって真剣に勝負している選手たちと、その瞬間のプレーをライブで楽しみ、J2リーグ終了時には、きっと、みんなでJ1復帰!を味わうことができるだろう。選手たちは素晴らしい感動を与えてくれるはずだ!

2004年03月17日

教わるのではなく学べ!

現役生活を終えてよく聞かれることがある。「なぜJリーガーになれたんですか?小柄なのに凄いですね~」と・・・。
私がJリーグでプレーしていたとき、それほど体格を気にしたことはなかった。勿論小柄だったことは自覚していたが、ボールは地面にあることの方がはるかに多いし、そんなことより、ドリブルで大きい相手を交わすことや味方が私を生かしてくれたり、逆に私が味方を生かしたりすること、自分のゴールでチームメートやサポーターが喜んでくれること、チームの勝利のために自分が貢献することに喜びやサッカーの楽しさを感じていた。なぜJリーガーになれたのかは、いろんな要素があり、簡単には言い表せない。しかし、あえて自分なりにポイントとしてあげるならば、まず一つ目には『どんなことよりもサッカーが好きだったから!』。これは基本的なことだが、小さい頃からボールを夢中で追いかけ蹴り続けることで、上手になりたいという気持ちが芽生える。上手になりたいからトレーニングをする。上手になりたいから厳しいトレーニングにも耐えられ、人のアドバイスにも耳を傾けることができる。耐えられることで乗り越えることができ精神的にも身体的にも強くなり成長する。プロというサッカーが仕事になってからでも、当然サッカーが好きな気持ちは変わらない。仕事はやっぱり楽しくなければ続かないし、やる気も出ないし向上しない、当然、成長もできない。楽しくて夢中になって、生活の中心になったのがサッカーだった。けっして楽(らく)をしたい、楽(らく)をしてきたわけではなく、楽(たの)しんできたのだ。

二つ目に『自分自身を知っていた!』。小さいながらも性格を含め、サッカー選手としての長所・短所を知っていた。知っていただけではなく、直ぐに行動に移すことができた。自分のいいところは伸ばそう、足りないところは補おうと、直ぐにトレーニングに入ること、例えばスタミナが無いと気づいたときには、「明日からランニングを始めよう!」は普通だが、「今夜からランニングを始めよう!」と、直ぐにトレーニングを始める強い意志が小学生の高学年時にはすでにあった。三つ目には『いろんな人の支えがあってプレーすることができた!』。選手はピッチの上に乗っているだけの状態にすぎない。例えば、サッカーをやりたいとき、スパイクやウェアーは両親から買い与えてもらうなど、家族の協力がある。サッカーを教えてくれる指導者もいる。チームメートもいて相手もいて始めて試合ができる。ピッチなどその場所を提供してくれる人や管理している人もいる。プロになってもチームのスタッフやサポーターの支えがあって選手としてプレーできる。だから選手がやらなければいけないことは、グラウンドで一生懸命プレーすることだ!一人では絶対にJリーガーにはなれない。

サッカーという専門のスポーツにおいて指導者の影響力は大きい。特に私は静岡学園高校で井田勝通監督に出会わなかったら、Jリーガーにはなれなかっただろう!私はサッカーというスポーツを続けていくことで、他の選手たちと体格の差を痛烈に感じたのは中学時代でした。個人差はあるが、身体的に成長著しい時期でもあり、ボールも小学生のとき使用していた4号球から5号球に変わり、当然、身体に負担がかかる。そして、これまで選手として順調に駆け上ってきた矢先のケガで、3年時は、ほとんどプレーした記憶はない。試合に出場していないことで、当然スカウトの目には留まらない、中学の先生からは藤枝の高校を進められたが、この中学時代を不完全燃焼で終えたことに、上手になりたいという気持ちをますます強くさせた。自分のサッカーがしたい!体格の差を感じていた私にとって技術を身につけることで、大きな選手と対等に戦えるはずだと思った。自分のサッカースタイルを求めて挑戦したい。上手くなるためには藤枝の高校ではなく当時、全国高校選手権大会などで高い個人技のサッカーで旋風を巻き起こしていた井田勝通監督の静岡学園高校だと即座に思い、周囲の反対を押し切り受験し、静岡学園高校サッカー部に入部することができた。井田監督は厳しいことで有名だったが、入学前の春合宿に参加したとき、その厳しさを既に味わうことになる。深夜12時過ぎ、ハードな練習の疲れで、みんなが寝静まっているとき、新一年生だけが起こされ、体育館に集合させられた。個人技で有名なこともあり、一人ボール一個用意し、ボールリフティングやボールリフトのトレーニングが永遠と続いた。深夜に起こされるだけでも普通ではないのだが、トレーニングがこんな時間から始まるとは新一年生の誰もが予想していなかった出来事だった。ここは普通じゃないところ、サッカーが本当に上手になりたい奴が来るところで、ボールリフティングなどのボールコントロールはサッカー選手にとって一番重要な基本的な技術なんだということを身を持って感じさせられた瞬間だった。井田監督は妥協することなく厳しかったが、サッカーにかける情熱は人一倍強く、それは選手たちに直ぐに伝わってきた。入部して一番最初に言われたことは、お前たちは『教わるのではなく学べ!』だった。たえず言われてきたことですが、教わるということと、学ぶという態度では大違いで、学ぶという態度では「積極的に学ぶ・研究する」という意味が表され、これは姿勢が違うのです。学ぶことは創造的なもので、その姿勢からサッカーに大切な「ヒラメキや洞察力」が生まれるという。これはほかのどのようなことにも言えると思いますが、主体性をもって練習に当たる。つまり、自ら進んで技術なり戦術なりを学ぼうとする姿勢が大切だということです。教えられているだけでは、何も生まれないんだということを、いつも選手たちに伝えていた。リフティングなどの基礎的な技術というのは、積極的に学ぼうと思えば、いくらでも学ぶべきお手本が上級生にいます。自分がやる気になれば、やるべきことは多いし、できるようになることはいくらでもあるわけです。学ぼうという意識を持つためには、自分に足りない部分を客観的に見抜く力と、それを補おうという強い意志が必要です。それがあって始めて実になっていくものでしょう。井田監督の指導は選手の個を生かすこと。自分に足りないものを補っていくという点でも、手の届かない、ないものねだりではありませんでした。つまり私の場合だと、スピードだけに頼るのではなく、それをより生かすために、ドリブルなどの技術を磨くことで、プレーの幅を広げることをめざしました。つきつめてゆけば、チームは個人の集合体。個々の技術をチームに生かすためには、自己のレベルアップが条件です。これがチーム力を高めることにつながります。自分自身の個性をいかにチームの中で発揮していくかは、サッカーを続ける選手にとって永遠の目標です。再び新たなチームのなかで自分の存在場所を築いていこうとするとき、この高校時代に身につけた個人技は、絶えず自分の自信となり、プレーの土台となっていきました。自分が自分を信頼できるだけの技術があってはじめて、個性を生かし、自己の目指すサッカーをすることができるのです。
静岡学園高校の練習の雰囲気は、選手たちが普段からあたりまえのように、積極的に取り組む姿勢ができ、個人技の高い選手が生まれている。

井田監督は、その場かぎりの結果や、なりふりかまわず勝利だけを目指すのではなく、あくまでも個人を育てることが将来の日本のサッカーに重要なことだと考えている。サッカーは年々変化しているが、井田監督のスタイルは今も変わらない。
フロンターレユースチームの選手たちも、日々努力しているはずだ。この3年間がとても大切で、やるべきことはたくさんあり努力次第ではトップにつながる選手が生まれる。フロンターレ下部組織から一人でも多く、Jリーガーとして活躍できる選手が育つよう期待している。

2004年04月16日

サッカーにおける天候・気候!

サッカーは様々な状況や条件の中で試合が行われる。必ずしも晴天でピッチコンディションがいいときだけでなく、雨や風や雪の中でも、あたりまえのように行われる過酷で厳しいスポーツでもある。
さすがに雷だけは落ちる可能性のあるときは様子が見られ、一時中断か中止か判断されるが、いろんな状況に応じて主審・マッチコミッショナー・実行委員が話し合って決定される。また、世界のあらゆるところで行われているサッカーは、様々な地理があり、南米のボリヴィアは6000m級の山々が14もあり高原の国として知られ、酸素も薄く一日の気温の差が常に10℃以上もある。そんな高地の国においてもW杯南米予選(ホーム&アウェー)などの大事な試合が行われる。
標高3000mのヴォリビアのLa Pas(ラ・パス)にあるホームスタジアムHernando Siles では対戦する他国選手たちは苦戦を強いられることでも有名で、ボールがよく飛びよく曲がると言われ、プロの選手でも90分走りきることは容易なことではない。滞在日時を2・3週間と長くして高山に慣れるか?そんなに長く取れないのが現状であり、ブラジル代表のように試合当日に現地入りし、なるべく滞在時間を短くすることで高山病にかからないように心がける。それでも試合終了後には意識がもうろうとする選手が出てくるため、急いでボリヴィアから出国することになる。
いずれにしても、そんな難しい状況の中で南米選手権やW杯南米予選などが行われている。

日本で行われた悪天候で有名な試合は、1987年12月13日(日)第8回TOYOTA CUP「FC ポルト(ポルトガル) vs ペニャロール(ウルグアイ)」で雪の中行われたものだ。
 当日、大学生だった私は雪の寒い中、東京国立競技場でFCポルト(8)マジェールの芸術的な決勝ゴールを見た。ラインはほとんど見えない状態で、黄色いボールがやけに雪の上で目立ち、しかもボールが1回パンクする事態もあったことで「こんな状態で試合ができるのか?ゴールが決まるのか?」と思った人も多かったと思うが、どんな悪条件の中でもあたりまえのように素晴らしい技術が発揮された。
 後にテレビやビデオでこの試合を目にし、決勝ゴールが決まったときの実況アナウンサーの「(8)マジェール!(8)マジェール!(8)マジェール!」の響きがとても印象的なTOYOTA CUP史上最も珍しい雪の中での世界一クラブ決定戦となった。

 私が清水エスパルスから川崎フロンターレに移籍してきた1997年、チームはまだJFL(日本サッカーリーグ)で、過酷な条件の中でも試合が行われていた。特に7月の夏場のアウェーでのヴァンフォーレ甲府戦では、昼間の15時に試合が組まれ、気温35度以上と非常に高く、選手たちの間では最も厳しい条件での試合になると恐れられていた。甲府の選手たちは普段からこの暑さの中でトレーニングを繰り返し、生活をしているため、他チームよりもはるかにこの環境に慣れ、試合でも地元としての利を生かし試合時間を設定し、戦ってくるのは当然のことだった。

 この年フロンターレはどこのチームよりも力があり勝利を重ねていったが、この猛暑の中では選手は思うように動けず、チームはまったく機能しなかった。普段からピッチ外での水分補給・食事(栄養)の摂取の仕方や宿泊先のホテルでの過ごし方(クーラーは極力弱くしたり)など、試合で力が出せるようコンディション調整には特に気を使っていたが、甲府戦を含めJFLを勝ち続けることの難しさを感じた。
 このような厳しい試合を乗り越えるだけの体力と精神的な強さも兼ね備えていなければ、Jリーグに昇格することは難しかった。引退した今、あの猛暑の中での試合を思い出すだけでもぞっとする!

 2002年9月7日、J1・2ndステージ第2節、忘れもしない「清水エスパルス vs ジェフ市原」の試合が行われた。この日、エスパルスのホームグランドである日本平スタジアムで、実況の寺西ゆういちさんと一緒に解説の仕事を行った。
 雨にもかかわらず1万3千人を超える観衆が19時からのキックオフを今か今かと待ちわびている。キックオフ15分前、両チーム選手たちがウォーミングアップも仕上げに入ろうとしている最中、突然スタジアムの照明が消えた。私は試合前にエスパルスも凄い演出をするんもんだなぁ!と思ったが、まったく演出でもなんでもなく雷による停電だった。エスパルスサポーターの応援が激しくて雷の音にさえも気づかせてくれなかった。私も寺西さんもオンエアーに入ろうとしていた矢先の出来事で驚き、試合開始時間も当然遅れることになった。私と寺西さんは、試合開始までの空いてしまった時間をつなげることに必死だったが、ウォーミングアップで一回身体を動かし汗をかいているだけにいつものようにいい準備をして、すぐに試合に入れない選手たちのことを考えると心配で仕方なかった。
 それでも試合開始から約10分遅れでキックオフし、早々の5分、エスパルスの三都主アレサンドロのゴールが決まった。ここまでは停電の影響など選手たちにはまったく見られない。そして前半35分にも突然の停電によりスタジアムは1回目よりも真っ暗になってしまった。この停電で選手たちは試合を行っていたことで、強い戦う気持ちが入っていたところに中断という事態がおき、精神的にも肉体的にも非常に大きな負担がかかった。結局20分間もの間中断し、雨が降ったり止んだりという天候、そして雷もが選手たちの試合を難しくしてしまった。たまたま解説という仕事中にあった珍しい印象に残る出来事だったが、そんな中でも選手は試合を続けなくてはいけない。

 先日、テレビでご覧になった人も多かったと思うが、2006FIFAW杯アジア地区1次予選「シンガポールvs日本」の試合がシンガポール(ジャランバサール)で行われた。FIFA世界ランキングでも108位、グループ3(日本・オマーン・インド・シンガポール)の中でも最も戦力的に劣るチーム相手に日本は辛勝だった。私も以前シンガポールに行って、SENBAWANG RANGERS FOOTBALL CLUBというチームで練習していたことがあったが、シンガポールは赤道直下で一年を通して高温多湿な気候、1回練習しただけで脱水症状になったこともあり、この気候に慣れるのには少し時間がかかった。サッカーをするには悪条件で、日本代表の主力である欧州組が直前合流だったことが、本来持っている力を出せなかったのも当然のことだ。試合で運動量が落ちることはわかっていたことで、見ていても日本を代表して戦っているという気持ちが伝わってこなかった。ユニホームが少し破れたくらいでピッチ外に出てくる選手もいたこともどうかと思う。監督のジーコも以前ブラジル代表の試合でユニホームを破られたことが何度かあったが、何も気にせずそのままプレーしていたし、ピッチ外にいる間、悪条件の中で他の10人はシンガポールの攻撃を必死でしのいでいたのだから・・・。

 選手は、とてもコンディションがよく身体が軽いときもあれば、逆に身体が疲れていて重いとき、ケガをしていて動きずらいとき、プレーが思うようにいかず精神的に悩んでいるときなど調子は様々だと思うが、プロである以上どんな状況であっても試合にできるだけいいコンディションをもっていくことが大切である。また、雨が降ろうが、風が吹こうが、雪が降ろうが積もろうが試合は行われるため、その状況に適した判断が求められ、その状況に適したプレーや戦術で戦う必要がある。ホームゲームなど自分たちがやりやすい状態ばかりで試合ができるわけではないし、アウェーのように慣れないスタジアムや環境で多くの相手サポーターの中でも行わなければいけないときもある。サッカーは予想できない様々な状況が訪れることがあるため、選手は判断力と適応能力が必要であると共に、とても強い精神力とタフな身体が求められる。悪条件やプレッシャーをはねのけ勝利するためには、チームワークが大切な要素になる。サッカーは1人ではない、それぞれが助け合うために11人も選手がいることを忘れてはいけない。

2004年05月22日

スパイク

私は、サッカーが盛んな静岡県藤枝市に生まれた。物心つく頃から、隣に住んでいたお兄さんがサッカーをやっていたことから、サッカーボールを夢中に追いかけ、蹴り続けた。お兄さんは、サッカーに興味を示していった私に、時々読み終わったサッカー雑誌や、履けなくなった短パン、ソックススなどをくれた。私は毎日のように一緒にボールを蹴って遊び、とても可愛がってもらった。

 ある時、お兄さんがとても大切にしていたスパイクを私にくれた。当時ではとても高価なPUMAの皮革製で『KING』と記されていた、ぶかぶかの大人のスパイクだった。もちろん直ぐには履けないが、ボールを蹴って遊ぶことが好きだった私にとって嬉しい出来事だった。これを履いて、いつの日かサッカー選手として試合に出たい! そのスパイクを眺めながら、自分なりに夢を描き、少年団での本格的なサッカーにのめりこんでいくことになった。

 サッカーが盛んな藤枝市には、藤枝東高校があった。ここは、以前天皇杯の決勝が行われたことでも有名で、天皇陛下も訪れたくらいサッカーの伝統ある学校だった。男子生徒全員が入学時にスパイクを購入し、体育はすべてサッカーというくらい珍しい学校であった。
 本格的に小学校3年からサッカーを始めたとき、私が親に購入してもらったスパイクは、オニツカタイガーのボンバー55で、当時の小学生の間では軽さ履き心地、価格的にも手ごろで主流のスパイクだった。それ以来、高校3年生までこの型のスパイクを愛用していった。

大学に入学してすぐの新人戦(1・2年生の大会)に、履きなれたオニツカタイガーのボンバー55で当然のごとく試合に臨もうとしたとき、コーチから「それは、ちゃんとしたスパイクではない! 皮のスパイクを履け! そのスパイクじゃぁ試合に使わないぞ!」と言われた。サッカーが盛んな静岡では皮革製のスパイクより、軽さやボールタッチがしやすい柔らかいスパイクを選ぶのは普通だった。皮革製はいいスパイクだということは認めてはいたが、ボールを遠くへ飛ばすことや、強いシュートを打つことはそれほど重要視されてこなかったため、ショックを受けたとともに、これから行っていくサッカーは、いろんな意味で生易しいものではなく、厳しい大人のサッカーになるということを感じさせられた。
 試合を翌日に控え、出場できないのでは困るため、慌てて町田にあるアドホックというスポーツショップに、皮革製のスパイクを購入するために出かけた。新しい皮革製のPUMAのスパイクは重くて履き慣れず、プレーもぎこちなく、後半はこっそり長年使い続けたボンバー55に履き替え、自分らしい動きを取り戻した。その後、大学2年から、チームの先輩に「PUMA」を紹介していただき、スパイクを支給してもらえるようになった。当時、大学リーグは盛んでトップチームで試合に出場できる可能性のある選手には積極的にスパイクを支給してくれていた。

 スパイクにはそれぞれ役割がある。例えば短い芝のピッチには固定式でスタッドが短めのスパイクを使用することが一般的であるが、雨で滑りやすいピッチや長い芝のピッチにはスタッドが高くて芝に刺さりやすい取替え式のスパイクを使用する選手が多い。特にDFはたった一度滑ってしまったことが失点を誘い試合を落としてしまうというケースも考えられなくわないため、試合前のスパイクを選ぶことは選手にとってとても大事なことだ。

 1993年Jリーグ、鹿島アントラーズvs横浜マリノス、鹿島スタジアムでの試合で、キックオフ直後から、横浜マリノスの選手たちが、スパイクを取替え式から固定式にチェンジするシーンがあった。この普通でない事態に多くの観戦している人たちや関係者はとても驚いた。それは鹿島スタジアムの芝の状態が普通の競技場とは異なっていたため、スパイクが合わなかった選手が多かった。鹿島の選手たちは、ホームグランドだったため慣れた状態で当然取り替える選手などいない。試合前のウォーミングアップがグランド内でできず室内を使うため選手たちはスパイクを履いて芝の状態を確かめたり、慣れることができないままキックオフを迎えざるを得なかった。
 鹿島スタジアムの芝は長いため、ほとんどの選手は取替え式でスタッドが高くて刺さりやすいスパイクを使用する選択をしたが、地面は思った以上に堅かったため、スタッドが刺さらずかえって滑ってしまう結果になった。この状態により横浜マリノスの選手たちはスパイクを替える時間を必要とされ、その隙に鹿島アントラーズに攻められ失点をしてしまった。とても珍しいシーンで記憶に残っている人も多いことだろう。横浜マリノスの選手たちは試合前にピッチの状態を見てスパイクを選んだのだろうが、もっと慎重にスパイクを選ぶ必要があった。勝敗にかかわってくる大事なことだった。

 スパイクを購入したり、新しいものの選びかたは人それぞれだ。例えば、好みのメーカー(puma・asics・adidasなど)、デザイン(色)、価格、軽さ、素材(天然皮革・人口皮革など)、スタッドの形(○型・ハ型など)、ソールの形、なんといっても自分の足(甲高・幅広・偏平足など)や目的にあっているものを選ぶのが大切。最近は有名選手(ベッカム・ロナウドなど)が履いているものを購入する子供たちが非常に多い。それは、子供たちにとって自分が憧れの選手になった気持ちでプレーできる喜びでもあり、サッカーを楽しく続けられる要素でもある。スパイクを履いてプレーすることは、サッカー選手としての自覚をもつことにつながる。

 Jリーガーとして清水エスパルスでプレーしていたとき、チームカラーのオレンジラインのスパイクを履いてみればと、マネージャーに言われ契約していたPUMAに特注のものを作っていただいた。当時レギュラークラスの選手はほとんどが自分の足型をとり、独自のこだわりのスパイクを作った。私のこだわりは、PARA MEXICO(パラメヒコ)というモデルで、軽量かつソール(スタッド)が自分の足裏(指)にぴったりとマッチし地面を掴める感覚のもので、しかも誰も履いていないオレンジラインが希望だった。軽量の部分ではスパイクの中綿を取り一枚皮だけにして軽量化を図り、ソール(スタッド)は別モデルのスパイクのものを使用し自分の指とスタッドの位置が上手く合い今までにない感覚のスパイクに完成した。しかし最初はライン(べラ・マーク)全てがオレンジにはならなかったが、時間をかけて出来上がっていった。

 スパイクも年々デザインや素材など変化している。例えば、昔は足に合っていて履きやすければよかったが、今はそれだけではなくカーブをかけられるような素材や紐が隠れるようになっていたり、黒だけでなく白いスパイクを履く選手が当たり前のようにいて、あらゆる工夫が施されている。ある時、PUMAの方から試作のものを渡され「今までにない軽量スパイクを作りました! 試しに履いてください!」と、履いた瞬間、心地よい感触で重さはまったく感じられない。軽量で足にいい柔らかい皮革、ソールも今まで愛用していたものとまったく同じで問題ない、間違いなく自分のプレースタイルに合っている新しいものだ。あとは若干の足型の変更とオレンジラインにするだけだった。後に引退までこのLEGGERO(レッジェーロ)というモデルのスパイクを履くことになった。

 スパイクはサッカー選手にとって身体の一部のようなもの。いい選手ほどスパイクを大切にしケアーを忘れない。選手によっては少しでもはやく自分の足にフィットするよう、新しく堅いスパイクはお湯や水に濡らし柔らかくしてから使用することがある。そして、選手によっては、スパイクのつま先部分をあらかじめ薄く削って剥がれにくいようにしたり、スタッドを自分の理想の姿勢に会うような角度に削ったりする。
私は、よく靴墨を使用しスパイクの手入れをするのが好きだったが、ある時ラインを塗りすぎ、契約していたPUMAから「靴墨がラインにかかりすぎスパイクのラインが分かりにくいから、黒く塗りすぎないように!」と、チェックを入れられたこともあった。逆に外国人選手は、あらかじめラインを黒く塗りつぶして真っ黒にし、どこのメーカーのものか分からないようにして、契約していないことをアピールすることもある。

 また、紐の結びかたでも、それぞれこだわりがあり、昔、流行っていたのは「マラドーナ結び」という変わったもので、みんなでよく真似して、ディエゴ・マラドーナになった気分でプレーしていたのを思い出す。私は選手時代に練習用と試合用を分けて履きこなし、取替え式1足、固定式3足を常に用意して試合に臨んだ。選手によって、いろいろな履きかたやこだわりがあるが、履いたとき少しでも違和感があっては、いいパフォーマンスを発揮することはできない。

 引退した現在、スパイクはほとんど履く機会が減ってしまった。小学校3年から大学1年まで履いた「ボンバー55」、エスパルス時代自分の足型に合わせて作ってもらったPUMAの特注「オレンジラインのスパイク」、フロンターレで現役引退の試合で使用したゴールドラインの「LEGGERO」、など自分自身が使用した思い出のあるスパイクは、幸運にも大切に保管できている。

どのスパイクも思い出深く歴史があるが、その中でも、隣のお兄さんから頂いたPUMAの『KING』は一度も履いてプレーすることはなかったが、今でも時々眺める度に昔を思い出す。毎日のようにお兄さんと暗くなるまでボールを蹴っていた頃、サッカーが楽しく楽しくて、好きで好きでたまらない頃のことを思い出す。このスパイクは私がサッカーの楽しさや選手になりたいという気持ちにさせてくれた原点でもあり、最高の宝物としてこれからも大切にし、眺めていくことになるだろう。

2004年07月02日

思いでもUEFA欧州選手権1992 スウェーデン大会!

UEFA 欧州選手権 2004 ポルトガル大会が開幕した。
 待ちに待った開幕戦は「ポルトガルvsギリシャ」で、ポルトガルのサポーターで埋め尽くされたポルトにあるドラゴンスタジアム。開催国でタレントが豊富であり優勝候補にあげられるポルトガルの試合に注目が集まったが、ギリシャが2-1で破り波乱の幕開けとなった。ポルトガルに自国開催のプレッシャーがかかったのか?2002W杯のように、サッカーの世界では何が起こるかわからないから面白い!
1992年6月11日~25日、私は清水エスパルスの選手としてハンガリーとスウェーデンを遠征した。
エスパルスはチームが誕生したばかりで、しかも監督を含めブラジル人が多かったことなどから、この欧州遠征でチーム力を上げることや、選手・スタッフとのコミュニケーションを図り信頼関係を作ることが第一の目的だった。
 17名の選手と十数名のスタッフで最初にハンガリーのブタベストに入った。そこはハンガリーサッカー協会が手配してくれた、タ-パスポーツセンターというスポーツ選手専用の合宿所で、私たちの他にもハンガリーの水泳選手や体操選手が合宿を行っていた。サッカーに集中するには最適な条件の場所だった。

 ブタベストでは地元のチームと3試合交流試合を行ったが、どの相手チームもアマチュアで力的には劣っていたが、エスパルスのような出来立てのホヤホヤチームは、コンディションをあげることや試合での連携・コミュニケーションを図るにはいい相手だった。その後スウェーデンのストックホルムに移動し1試合交流試合を行った。相手はオランダのプロチームで前の3試合のようにはいかなかった。私はプロ選手になって初めて欧州のチームと対戦したが、改めてフィジカルの強さと、組織力がしっかりとしていること、ピッチ状態を含め環境の違いを実感した。チームにおいても自分にとっても課題がはっきりと見えた試合になった。
 そして、今回の遠征のもう一つの目的である欧州選手権1992スウェーデン大会(UEFA EURO 1992 SWEDEN)を観戦することだ。
 各国の代表チームが競う欧州選手権は、1956年から構想が練られ、2年後に欧州ネーションズカップという名称で始まった。UEFAの創設に尽力したのが、フランスサッカー協会のアンリ・ドロネー氏で優勝チームに送られるトロフィーには、彼の名前が付けられている。1968年からは欧州選手権に大会名が変更された。
6月21日、欧州選手権準決勝 「スウェーデン vs ドイツ」ストックホルムのロースンダ・スタジアムで行われた試合を観戦した。
 開催国スウェーデンの試合だけにスタジアムの周辺はスウェーデンカラーの黄色と青のユニホームやグッズで並べられ盛り上がっていた。欧州で見るプロの試合はこれが初めてで、しかも欧州選手権準決勝の素晴らしいカード、しかも当時私が一番気に入っていた選手でもあるドイツ代表のMF?トーマス・へスラーを間近で見れたことは最高に幸せだった。小柄でテクニックがあり欧州の大柄な選手をキレキレのドリブルで交わすところは、自分がプレーしているかのように勘違いしてしまうくらい、見ていて気持ちがよかった。サッカー選手として上を目指していくうえで、私に勇気を与えてくれた選手の一人であった。この試合は地元スウェ-デンのサポーターの声援も大きく好ゲームとなったが、最後は勝負強く、力のあるドイツが2-1で勝利した。?トーマス・へスラーのゴールも見ることができ、満足できる試合だった。
 翌日、6月22日ストックホルムからヘルシンボリに移動し、ヨ-テボリにあるウレッビ・スタジアムで欧州選手権準決勝2試合目「オランダ vs デンマーク」の試合を観戦した。当時オランダといえば、?フランク・ライカールト、?マルコ・ファンバステン、?ルート・フリット、という3人のスーパースターがあまりにも有名で注目され、優勝候補NO1だった。私もオランダの爆発的な攻撃力に注目した。試合は以外にもデンマークの?ラーセンが先制した。その後、オランダの?ベルカンプのゴールで追いつき、またしても?ラーセンが突き放すという展開になった。そして終了4分前?ライカールトのゴールでようやくオランダが追いついたが、PK戦の末、5-4でデンマークが勝利した。誰もがオランダ勝利を予想していたが、サッカーは戦ってみなければわからないもので、いくらスター選手が揃っていてもチームが一つになり上手く機能しなければ勝てない。やっぱり11人みんなで戦うチームスポーツであり、見ていて勝ちたいという気持ちが伝わってきたデンマークのチームワークによる勝利だった。終わってみれば私の注目はオランダの3人からデンマークチームへと自然に替わっていた、オランダのサッカーよりはるかに素晴らしい彼らの勝利に感動していたのを思い出す。 
 このスウェーデン大会は、欧州の政治情勢が変化する中で開催されており、東西ドイツは統一ドイツとしてチームを作り出場し、解体されたソ連は独立国家共同体(CIS)として参加。ユーゴスラビアは内戦での残虐行為により大会から除外され、ユーゴスラビアに代わって急遽大会に出場したのがデンマークだった。デンマークは前回の1988年ドイツ大会で3連敗を喫した上、ミカエル・ラウドルップが出場を拒否しており、大きな期待を寄せる人は少なかったが、予想外の展開で決勝進出を果たした。注目の決勝戦はデンマークに対し、ドイツが力で押し込む展開となった。防戦一方だったデンマークだったが前半18分に?イェンセンのゴール、後半33分に?ビルフォルトが追加点を決めアンリ・ドロネー杯にくっきりとデンマークの名前が刻まれた。白血病に苦しむ娘を見舞って戻ってきたばかりの?ビルフォルトが決勝でゴールを決めたことはまさにおとぎ話にふさわしかったという。こうした様々な理由からヨーロッパの人々の大半はデンマークの優勝を喜んだ。

 私が見た1992年の欧州選手権は、他の大会から見ると観客数が少なかったが、関心がなかったわけではなく、スタジアムの収容能力が限られていたからだ。大会中もフーリガンが暴れて問題を起こすこともなく、熱心にチームを応援し続け欧州選手権の中でも最も国際色豊かな活気あふれる素晴らしい大会になった。そんな大会を実際にスタジアムで観戦し、欧州選手権の雰囲気を十分に味わうことができたことは幸せだった。これまでの欧州選手権の長い歴史の中で開催国は必ず準決勝まで勝ち上がっている。開催国は、やはり有利であり大会を最後まで盛り上げる力があるため、2004大会はポルトガルに期待したい。大会が終了するのは寂しいが、今からFINALに顔を合わせる国はどこかが楽しみだ。

2002W杯以降、日本のTVでも世界中の試合が放送され、スポーツニュースでは現在行われている欧州選手権の結果をやるまでになった。私が少年時代はサッカーの試合放送は少なく、世界の情報もなかなか自分の中に入ってこなかったが、現在では子供たちも世界のスパースターのプレーを見ることが出来、その素晴らしい技を真似し磨くこともできる。また、サポーターや初めてサッカーを見る人も、この欧州選手権の独特な雰囲気は映像でも十分に味わうことができる。欧州でも国によってまったくサッカーのスタイルが違い見ていて楽しい。是非、今行われているこの大会を見て自分の中でサッカーの素晴らしさを思う存分感じてほしい。また、いつの日か欧州選手権をスタジアムで観戦し再び感動を味わうことが出来る日を私は夢見ている。これからも世界一のスポーツサッカーは私の生活と共に歩み、永遠に人々関心を集めていくことになるだろう。
 サッカー!こんなに面白いスポーツは他にはない・・・。

2004年09月16日

サポーターの存在

1992年4月、私は東芝サッカー部から清水エスパルスに移籍、プロの世界に飛び込んでいくことになった。外国人を含めた6名のプロ選手しかいなかったアマチュアのチームから監督・コーチ・選手、全てがプロの集団であり、逃げ道はなく、もう言い訳はできない。全てが同じ条件で、本気で戦える環境に身を置き、チーム内のポジション争いに負ければチームを去ることにも繋がる。監督やコーチもいい成績を残せなければ職を失うこともあるため、みんな必死だ。そんな危機感をつのらせながらも、レギュラー獲得に向け、充実した毎日を過ごし、まったく予想もできない来年開幕のJリーグの舞台に向かって走りだしていた。

 サッカー選手が試合をするために欠かせない人達はたくさんいる。監督やコーチングスタッフ・審判員・会場の運営に携わる方々など数え切れない程いるが、その中でも忘れてはならないのが観客でありサポーターの存在である。サポーターは、よく12番目の選手とまで言われ、フロンターレでは背番号12がサポーター番号になるくらいチームの一員的な役割を果たし、選手にとって重要な存在にあたる。
私が現役時代、向島建後援会をはじめ、多くの方々に応援し支えていただいたお陰で、Jリーガーとして長く現役を続けることができた。中でも競技場のゴール裏で個人応援団として活躍していただいたタツルサポートクラブの存在は心強く、いつでも私に大きな力を与えてくれた。

Jリーグ発足当時、清水エスパルスのサポーターをつくるために、当時運営に携わることになった筆頭株主のテレビ静岡と小谷泰介氏(サッカープロデューサー)が立ち上がった。エスパルスが誕生し大阪での初プレシーズンマッチに、応援バスツアーで駆けつけてくれたファンに対して「ゴール裏でフラッグを振って一緒に応援しよう!」と呼びかけた。小谷氏は海外のサッカー事情に詳しく、サッカーの応援の仕方やフラッグの掲げかたなど、自ら進んで指南役になった。そして、納谷聖司氏(三浦ヤス・カズの伯父さん)はブラジルと深く親交があったため、プロのサンバ隊6名を半年間清水に送り込み、日本人にサンバの基本をマスターさせることが目的だった。エスパルスは監督・コーチ・選手などブラジル人が多く在籍していたことからブラジル色が強かったため、サンバのリズムでの応援が一番マッチしていた。最初は30人余りだったサポーターもゴール裏のサンバ隊の明るさや応援の楽しさが伝わったのか、「俺もやりたい!」と見る見るうちに増えていった。その頃、エスパルスのレギュラークラスのほとんどの選手が地元静岡県出身ということもあり、身内や同級生が働きかけ、個人応援団が出来ていった。私の応援団はタツルサポートクラブ『TATSURU SAPPORT CLUB』といい、地元、藤枝市の青島サッカー少年団の先輩でもある滝田隆雄氏が代表を務めた。1992年に草薙競技場で『向島』という旗を振って応援していたのを見て、周りの多くの方々が一緒に応援したいと集まってきたそうだ。Jリーグ人気で盛り上がっていたときには、登録していた会員数だけでも数百人にのぼった。当時のエスパルス応援団の中でも中心的な存在であった。私が川崎フロンターレに移籍してからも、等々力にまで応援に駆けつけてくれた。そして2001年12月29日神戸での現役最後の試合となった清水エスパルス戦まで10年間 『向島建』 『走れ牛若丸』 『TATSURU』 『GET GOAL TATSURU』 の横断幕を競技場に掲げ声援を送ってくれた。応援を通じてサポートクラブ内でも多くの人が結ばれるなど、おめでたい出来事も多く結束は固かったようだ。
 そして、納谷氏が代表を務めるエスパルスの私設応援団シャペウ・ラランジャ(オレンジの帽子)に各個人応援団が連合として集結し、一体となり、まとまったエスパルスの応援が出来上がった。そのサポーター全体の指揮をとっていたのが静岡学園高校時代のクラスメートの中山喜仁くんだ。彼は高校時代、応援団として活躍、その頃から選手と応援団の間柄でプライベートでも気の合った仲間だった。私が東芝サッカー部でプレーしていたときから応援に駆けつけ、清水エスパルスに入団することが決まった時には、心から喜んでくれた。忙しかった私に代わって住まいまでも探してくれたいい奴だ。彼は当初、私の後援会を作ろうと企んでいたが、テレビで私設応援団を募集しているのを見て「どうせなら全員応援した方が面白い!」と思いテレビ静岡に出向いた。一人々自己紹介していく中で、私と同級生という話をしたことから「そういうことなら団長は中山さんにやってもらいましょう」と小谷氏から任命され、彼の道は決まってしまった。
 そんな彼は責任感が強く、エスパルスの応援団長としてホームゲームは勿論、日本中を駆け巡る生活で仕事までをも転職せざるをえない状況に追い込まれ、波乱万丈の一年を送った。そんな中山くんが試合中に指揮をとっているとき一番信頼していたのが、バンド経験があったサンバ隊の岩瀬弘通氏(サザンオールスターズの野沢さんの親友)だ。

 Jリーグが開幕してから、エスパルスの大応援団が見守る中、選手たちは必死でプレーし素晴らしい結果を残し、見ていて楽しい攻撃的サッカーを展開した。それは、ただたんに監督や選手の能力が高かっただけでなく、戦術がよかっただけでもない。オレンジ色の大応援団の力が影響していた。試合中、エスパルスの選手が相手ボールを奪い攻撃にかかったとき、エスパルス得意の流れるようなサッカーを展開できるようサンバ隊のテンポのいいリズムが選手たちを乗せてくれる。逆に相手ボールになったときはスローサンバに切り替わり相手の攻撃をゆっくりさせてくれる。選手も応援団も一体になり「今は攻撃!守備!」と試合の中に入っている。ピッチ外にボールが出るか、セットプレーになって試合が止まる以外はリズムが続く。ボールが動いている間は一回々そのリズムが途切れることはほとんどない。「サッカーは流れだから!いつでもリズムがある。試合が途切れるまでリズムは続ける!」それが中山くんたちの考えであり、その指揮をとる中山くんの合図で岩瀬さんがサンバを叩く、時には岩瀬さんの研ぎ澄まされた感覚からの判断でテンポが変わる。彼らの信頼関係が当時のエスパルスの大応援団を動かし、選手たちを気持ちよくプレーさせてくれていた。私自身もその応援とリズムは耳に響き、身体で十分感じていた。試合を重ねるごとに、サンバのリズムが自然と選手に馴染むとともに観客にも今は攻撃だ!今は守備だ!と教えてくれていた。自らの「ゴール!」の瞬間、大応援団が歓喜し、ビッグフラッグが大きく左右に揺れる!今度は中山くんと滝田さんで合図が交わされ、タツルサポートクラブ中心にタツルの応援歌の大合唱と「タツル!・・・タツル!・・・」の祝福のコールがかかる。それに答えるようにタツルサポートクラブ、そして中山くん率いるサポーターに向かって両手を高々と掲げた。自分のゴールでみんなが幸せになる。とても気持ちがよく、サッカー選手であってよかった瞬間でもあった。
 サッカーの応援も様々だが、中山くんたちの基本の応援姿勢は選手のために応援することだった。先日のアジアカップでの中国のような野次は飛ばさないマナーのある応援、相手チーム・選手を尊重し、自分のチーム・選手を精一杯応援することだった。中には甘すぎるといった声もよく聞かれたそうだが、その姿勢は崩さず、彼ら応援団もゴール裏でサンバや応援歌などでみんなが楽しめることが目的だった。「選手がプロだから見るほうもプロになってほしい。うっぷん晴らしじゃ困る!」というのが中山くんの言い分であり、決して特権意識で言っている訳ではなく、競技場がグランドとスタンドに分かれてはいるが、気持ちが一つになった時に初めて感動が生まれることを彼はよく知っていた。そしてゴール裏がみんなで応援することで楽しいものでなくてはいけないのだと彼は願う。

 今回、私がエスパルスの応援団について、なぜ書いたのかというと、選手にとって応援というものが、いかに重要だったのかを言いたいからだ。そして引退した今でも当時一緒に戦ってくれたサポーターたちのことは忘れられない思い出となり、強く印象に残っているからだ。私がフロンターレに来た1997年、JからJFLでは応援の仕方も人数にもだいぶ差があり、フロンターレサポーターに対して少し物足り無さが正直あった。しかし、サポーターも年々増え応援にも変化が現れていった。2001年には、たくさんのフロンターレサポーターの方々に温かい声援を最後まで送っていただき引退することができて、幸せだった。現在ではサポーターの方々自信でアウェイツアーを組んで遠方まで応援に駆けつけていただいている。サポーターエリアも以前より拡大するなど、着実に人数も増え成長している。川崎フロンターレは、現在首位を直走っている。そこには川崎華族をはじめとした心強いサポーターの力が選手たちを後押ししてくれていることは間違いない。レッズのように力強い声で応援するサポーター、エスパルスのように南米ブラジルのサンバ風であったり、エスパルスにはエスパルスの応援の色や形があるように、フロンターレにはフロンターレの応援の色や形があっていい。応援団は数が多ければいいというわけでもないが、選手たちがプレーしやすく力を与えてくれる存在が一人でも多ければ心強いし嬉しい。Jリーグでもフロンターレのサポーターはマナーも良く、選手たちに野次をとばすこともなく温かくなおかつ熱く応援してくれている。スタジアムも試合を重ねるごとに、家族連れの子供から大人までが一生懸命選手を励まし、応援できる環境になっている。青さも一層増し、まとまりのある応援が等々力での試合を盛り上げてくれている。スタジアムで応援することで、本物のフロンターレサポーター・本物のサッカーファンになってほしい。チームとしての目標を達成できたとき、選手とサポーターが一緒に喜びを味わえなければ意味がない。サッカーにサポーターの存在は必要不可欠なのである。
等々力競技場が毎試合2万人の青いサポーターで埋めつくされ、フロンターレの選手たちに力を与えてくれることを願っている。永遠に!

中山くんは1994年8月で応援団長を引退し、現在はエスパルスのホペイロ(用具係り)として、トップチームに常に帯同し、欠かせないスタッフにまで登りつめている。チームの集合写真には必ず納まっている恐るべし男だ!

2004年12月24日

クリスマスプレゼント

2004年シーズン、川崎フロンターレは圧倒的な強さでJ2リーグを優勝!念願のJ1返り咲きを果たした。そしてシーズン最後の大会である天皇杯でもJ1相手に堂々とした戦いをみせ、来期に繋がる形でシーズン終了となった。これから天皇杯も大詰めになっていくが、この日程こそが必ずといっていいほどクリスマスと重なる。海外のリーグではクリスマス休暇になるリーグもあるほどで、クリスマスといえば一年の中で最高のイベントであり子供から大人まで楽しめる。特に子供はプレゼントを期待するものだ。私は35にもなって素晴らしいプレゼントを貰うことができた。それは貴重で、二度と貰えない最高の贈り物だった。
『2001年12月24日(月)天皇杯準々決勝、川崎フロンターレ3-0東京ヴェルディ1969』
私は、この日チームメートから最高の『勝利』をプレゼントされた。(勝利=清水エスパルス戦)
J2リーグ戦終了時点で現役引退を表明し、引退後のために指導者ライセンス取得 へ講習会にも参加、コンディションもベストではないことやチームを離れることで他選手やチームへの影響も考え天皇杯には出場しないことを自分の中で決めていたため、この試合も当然メンバーから外れていた。フロンターレは出場している選手がチームを去る選手が大半を占め、少しでも長くこの仲間たちと一緒にサッカーをしたい、1試合でも多く試合をしたい、という強い気持ちがチームを一つにし、J1の強敵ヴェルディを相手に大勝した。負ければシーズン終了、引退・・・しかしフロンターレは準決勝進出、次の相手は清水エスパルスと対戦することが決まった。J1相手に激しい試合で勝ち上がってきたためケガ人や出場停止選手が出る中、FWのポジションが空いてくる。しかも相手は私が5年間在籍していた思い出がある古巣の清水エスパルスだったことから「試合に出てみたい!・・いや今更何を言っているんだ・・出るべきではない!」正直複雑な気持ちもある中、コンディションのいい戦える選手が出場するべきで、全ては監督の決定に従うのがベストである。そんな中、選手・スタッフたちの声が私に届く「タツルさん出場してくださいよ!エスパルス戦ですよ!」この試合に出場する、しないかかわらず彼らからの温かい言葉、今シーズンで現役を引退する私への心遣いが本当に嬉しかった。最終的に石崎監督から「“タツル”行けるなら行こうぜ!」その一言が準決勝の舞台である神戸行きを決断させた。

 神戸行きを前に済ませておかなければいけないことがあった。それは引退後の去就問題だった。
フロンターレに移籍してから毎年12月のシーズン終了後に、来期現役続行? 引退? についてエスパルスから尋ねられていた。現役を続けるならできるところまで頑張ってほしい。しかし、現役を引退するならエスパルスに指導者として戻ってきてほしいと。引退後のことについて自分自身は「クラブ全体を知りたい、どうやってクラブが運営され成り立ってるのか? どんな人たちがクラブに関わって、選手をどう見てるのか? 」引退したら指導者になるのが一般的だが、自分は指導者になる前に勉強しておきたいことがある。選手から指導者になったら見えない部分がたくさんあるのではないか? 現役生活が長かった分、一般社会の常識的なことから離れすぎているような気がしていたことも事実だ。いろんなことを学んでから指導者になったほうが自分はいいのではないか。子供たちにサッカーだけを教えている時代ではないし、自分自身がもっとしっかりしたものを身に着けたい。そう考えると、いろんなことを経験できて学べる条件を与えてくれたフロンターレに残ったほうがいいのでは? クラブの実績やブランド的に考えるのならエスパルスかもしれないが、フロンターレではやることがたくさんある。生まれ育った故郷でもあり選手として華々しい活躍ができ、選手としてのイメージが強いのはエスパルスかもしれないが、フロンターレはこれから可能性あるチームで自分を生かせるのではないか。神戸での準決勝を前に去就をはっきりさせたかった。迷い・・悩み・・いろんなことが数日間、頭の中を駆け巡り、最終的に出した結論はフロンターレに残ることだった。出発を控えた前日木曜日、清水の関係者に電話で自分の気持ちを伝えた。すっきりした気持ちになり現役最後の舞台になる神戸に向かった。

 2001年12月29日(土)神戸ウィングスタジアム準決勝、川崎フロンターレvs清水エスパルス戦当日がやってきた。試合前スタジアムのゴール裏は両チームサポーターの応援が鳴り響く。競技場に入りピッチコンディションを確認していると清水関係者が私の元へやってきた。昨日の話しから世間話し、そして「試合終了後にエスパルスサポーターにも挨拶してくれ! みんな待っているから! 」という言葉を最後に別れた。試合はエスパルス有利に展開するがフロンターレも粘りをみせ好ゲームとなった。そして2-1とエスパルスにリードを許した後、いよいよ現役最後のピッチに立つ。出場早々引退を知ってかエスパルスの選手たちから握手を交わしてくる。それから夢中で走りまわった15分間のあっという間の出来事だった。地に足が着いていない、まったく自分のプレーではなかったが、グランドに全てを置いてくることができた。試合は2-1のまま終了した。私の14年間の現役生活が終わったとともに、川崎フロンターレ2001シーズンも終了した。
まず両チームメートと握手を交わし、ゴール裏で共に戦ってくれた心強いフロンターレサポーターにお礼の挨拶をした。そして、タツルサポートクラブの方々も駆けつけ、たくさんの拍手と花束を贈ってくれた。主審からは最後に使用された試合球を渡され、たくさんの人たちが私の引退に華を添えてくれた。最後に愛娘の美里とともにエスパルスサポーターの待つゴール裏に挨拶に行く。たくさんのサポーターが私に手を伸ばし握手を求めてきてくれた。涙を流してくれている熱いサポーターもたくさんいた。それにしても現役最後の試合がエスパルス戦とは凄い巡り会わせだ。誰かがセレモニーを予定し手掛けてくれたわけでもない。これも12月24日に勝利をプレゼントしてくれた、かけがえのないチームメートのお陰であり、忘れられない最高の引退試合になった。一生忘れられない感謝の気持ちでいっぱいである。

 いよいよ今年も残すところあと僅か。
 J1昇格を決めた今、引退する選手・移籍する選手・来期の舞台を待ち望む選手たちがいる。これだけは忘れてはいけないことがある。J1昇格の影にはいろんな人が関わっていたということだ。選手は他人のためにプレーしろとは言わない、自分のためにプレーしてほしい。しかし、サッカーは一人では決して成り立たないものであり、いろんな人の支えがある。そして必ず自分も引退するときが来るのだから。人のために良くしてあげられるなら必ず自分にも帰ってくるものだ。
サッカー界は今年も目まぐるしいくらいたくさんのドラマがあった。

 川崎フロンターレはJ1昇格という目標を果たすことができた。選手たちはチームが一つになり最後までよく戦った。そしてサポーターの皆さんにはホームは勿論、遠方のアウェイでも関係なく足を運んで熱い応援をしていただき本当にありがとうございました。
 2005年シーズンも川崎フロンターレは人々にたくさんの感動を与え、みんなが幸せな一年を送れるように努力したいと思います。これからも皆さんの変わらぬ温かいご声援をよろしくお願いいたします。

※ガミ&ユヅキ、現役生活お疲れ様、第二のサッカー人生での活躍を期待します。

2005年02月05日

2005シーズン!

関塚監督率いる川崎フロンターレは、宮崎での1次キャンプも終盤に差し掛かり着々とJ1に向け戦う準備が整えられている。

先日、J1リーグの日程が発表され川崎フロンターレの開幕戦はアウェーの柏レイソル戦に決定した。柏レイソルというと2000年のJ1リーグにおいて柏のホームである日立柏サッカー場で降格を決定させられた苦い思い出の相手である。そのとき私は17人目の選手としてチームに帯同していた。降格が決定したときには、ベンチ裏のウォーミングアップ場で降格のショックをかき消そうとひたすら狭い人工芝のスペースをぐるぐるといつまでも走っていたのを覚えている。そんな相手が今年の開幕戦だとは・・・。

どんなことがあっても勝ってほしい。勝っていいスタートを切ってほしい。今はピッチの外からしか私にできることはないが、今シーズン川崎フロンターレが多くの人々に感動を与え、J1の華やかな舞台で旋風を巻き起こすことができるよう力になっていきたい。

今シーズンも皆さんの温かい声援をよろしくお願いいたします。

2005年02月22日

九州!

今年度の全国高校サッカー選手権大会は鹿児島実業の優勝で幕を閉じたが、最近の九州勢は全国的にもレベルが高く、身体的にも強く将来楽しみな選手が育ち、多くのJクラブが注目している。既に高校も来年に向け新しいチームがスタートし、各県では新人戦が行われている。

私は今年スカウト業務にも携わることで早速、九州は熊本県大津町に飛んだ。

第26回九州高等学校サッカー新人大会は九州各県で行われた新人戦で2位以内に入った8県16チームで行われた。この時期は、1・2年生の新メンバーでチームが組まれ、チームの状態や仕上がりはスタートしたばかりでまだまだ時間はかかるが、そんなことよりも、この時期に県外のチームとレベルの高い激しい試合が繰り広げられ経験することは、たくましい選手を育成し九州全体のレベルを上げる一つの要因でもある。また、それらは経験と熱意ある指導者たちがお互いにコミュニケーションを取り合い積極的に取り組むことで、常に選手育成とチーム力向上を目指し、九州のサッカー発展に努めている。

私が見た今大会は初日から雨と強風で午前の試合が翌日延期、二日目も雨と強風、三日目は雪から雨という悪天候が続いたが、そんなことは気にする様子もなく、選手たちは平気で黙々とプレーしていた。救急車が毎日出動するほど激しい試合が繰り広げられた。

現時点では鹿児島実業は実力的にも一つ抜けていた気がする。東海大五もパワフルで能力が高い選手が揃う。熊本大津はしっかりとパスを繋ぐサッカーを心がけ今後が楽しみな選手がいた。

全体的に守備陣は大柄で高さと強さを兼ね備えた選手が各チームに多い。九州でもチームによってそれぞれカラーは異なるが、サッカーはパワフルで精神的にも普段から鍛え抜かれていて最後まで諦めないタフな戦いをするというのが特長だろう。

試合を観戦すれば、ある程度来年度の戦力は伺えるが、高校での1年間は選手を大きく成長させるため、身体的にも精神的にもたくましい九州の選手からは、これからも特に目が離せない!

2005年02月25日

STRIKER DX vol.6 足ワザ!

私が解説で出演しているSTRIKER DX vol.6 が先日Gakkenから発売された。
今回は、UEFAチャンピオンズリーグ(CL)の32クラブが8グループに分かれて戦ったグループリーグで披露された極上足ワザをタップリ公開している。

さらに、決勝トーナメント第一戦(2/22~)全カードの見どころやフォーメーション、選手出場表もバッチリ掲載されている。私はこのSTRIKERというサッカー雑誌では、これまでに4度解説で出演させていただいている。取材場所はフロンターレの麻生グラウンド人工芝を使用。世界最高峰で活躍するスーパースターの足ワザをまずビデオやDVDで何度も何度もチェックしてから実践を行う。私はJリーグなど長年のサッカー経験をして来たことで難しいワザも幸いすぐに頭の中でイメージすることができプレーのコツも掴めた。スーパースターの繰り出すワザになるべく近づけるよう納得いくまでプレーした。一番大切なのは読者が見てわかりやすいプレーが撮れることだ。

実践後は一つ一つのプレーを解説する。身体や膝・足首などの力の入れ方からボールタッチなど感覚的なことや相手の逆をとる意識的なことなど、ワザを成功させるためのツボなどを細かく伝える。取材は約3~4時間と長いが、特に足ワザは自分でも得意であり、なんといってもプレーするのが楽しい。指導者という立場からも取材で学ばせてもらっていることは多く、スタッフも最高の仕上がりにしてくれるので発売がいつも楽しみである。

スーパースター、ロナウド・ジダン・ロナウジーニョ・フィーゴ・カカ・シャビ・ネドベド・ピルロ… 彼らのワザをマネしてサッカーやフットサルで思いっきり楽しんでほしい!UEFAチャンピオンズリーグベスト16全クラブ足ワザハイライト。怒涛の大公開スペシャル!是非チェック!してみて下さい。

2005年02月28日

FUTSALを楽しもう!

PUMA CUP 2005第10回全日本フットサル選手権大会(2/4~6)が駒沢体育館、駒沢屋内球技場で行われた。私はフットサル日本代表候補になった2003年の第8回大会から観戦している。日本全国から勝ち抜いた地域代表が集まることで、フットサルの日本全体のレベルをある程度知ることができた。また、代表合宿で一緒になった選手たちがチームの中心選手として出場していることもあり、その活躍を見ることができるチャンスでもあった。

今大会は、なんといってもFIRE FOXが主役で、関東リーグを制し、既に2冠を達成していた。日本代表の(11)木暮、(6)難波田は経験と実力を兼ね備えた選手で、チームへの貢献度は高い。現在最も安定している強豪チームFIRE FOXをどこのチームが破るかに注目が集まった。

大会2日目の準決勝、FIRE FOX(関東第一代表) 7-6 P.S.T.C LONDRINA(関東第二代表)戦が事実上の決勝戦といってもいい白熱した好ゲームだった。フットサルの特徴はプレーする楽しさが多くの人に支持されていて、私も実際にフットサルを観戦するよりもプレーする時間の方がはるかに多く楽しい。しかし、この準決勝のように見ている人をわくわくさせ感動を与えてくれるような試合が実際に行われている。

競技レベルの高いフットサルは、まだまだ関東に強豪が揃い、次に関西・東海・北海道と続き特に東北・北信越・中国・九州・四国の地域代表とはレベルに開きがある。チームによってはブラジル人を要し戦ってくるチームも少なくないが、全体のレベルアップが望ましく、大会自体がもっと盛り上がり緊張感のある好プレー、好ゲームを見ることに繋がる。

たくさんの人にもっともっとレベルの高いフットサルを見る楽しさも味わってもらいたい。フットサルを楽しむ人は年々増加し、男女、年齢問わず気軽に自分たちのレベルでプレーできるフットサルの人気はまだまだ続く。これからもフットサルがサッカーファミリーとして人々の生活の中で発展して行くことを私は強く願っている。

決勝は予想通り勝ち上がったFIRE FOX(東京)が 7-1 でEMARSON FC(静岡)を破った。
終わってみればPUMA CUPだけあって、FIRE FOX(ユニホームスポンサーPUMA)の大会で幕を閉じた。

2005年03月01日

建のストライカーを狙え!

私がレギュラー出演しているフロンターレの応援番組 『SUKI!SUKI!フロンターレ』の中の新コーナー「建のストライカーを狙え!」の4回目の収録が行われた。

『SUKI!SUKI!フロンターレ』は昨年の5月から毎週 iTSCOM(東急)とOCV(小田急)の両ケーブルTVで始まり、昨シーズン終了後の12月29日からはiTSCOM単独で放送されている。

フロンターレは普段から地域スポーツへの振興活動を積極的に行い、市内小中学校へセカンドティーチャーを派遣している。これは、フロンターレのサッカー普及コーチが、担任の先生方に代って体育の授業を受け持つという身近なクラブならではのものです。新コーナーではフロンターレのコーチが巡回指導を行っている小学校の体育授業に御邪魔し、収録をさせていただいています。私を含めた4名のコーチとふろん太くんがチームになり小学生10人とサッカーボーリングで対決するという企画です。

今回は王禅寺小学校で収録を行いました。2年1組チームは10mからキック、フロンターレチームは20mからキックして10本のピンを狙い、全員のピンを倒した合計の多いチームが勝利です。20mという距離は予想以上に遠く、またレーンの幅も狭いためカーブを描けることも難しく、小学生相手とはいえいい勝負になるため番組的にも盛り上がります。私の調子は少しずつ上昇し個人的な最高記録7本を出すことが出来ました。番組的にこのコーナーの主役が不調ではいけません。とりあえず今回は20対10で勝利しフロンターレの面目が立ちました。遊びの勝負とはいえコーチたちも子供のように喜び、時には真剣な表情になったり、このコーナーを楽しんでいます。フロンターレチームとしては、まだまだ安定感がなく今後の勝負に不安はありますが…

川崎市内でも学校によって雰囲気が様々だったり、担任の先生や校長先生のカラーがよく子供に表れていて、このロケに行くのが楽しみの一つでもあります。
今年、このコーナーでは川崎市内の小学校をできるだけたくさん回る予定です。たくさんの子供たちと番組を通して触れ合い、元気な子供たちや小学校を紹介していきたいと思います。

一人でも多くの方々に川崎フロンターレを知っていただき、応援していただけるように頑張っていきたいと思います。これからも 『SUKI!SUKI!フロンターレ』では、フロンターレの情報やサッカーの楽しさをわかり易く伝えていきたいと思います。

2005年03月07日

J1のスピード!

2005シーズンJ1リーグがいよいよ開幕。川崎フロンターレの相手は昨年J1最下位の柏レイソル。
試合は柏に先制されたものの終了間際ジュニーニョのゴールで追いつき、アウェイで貴重な貴重な勝点1をもぎ取った。5年ぶりにJ1の舞台に戻ってきた川崎がどんな試合を展開するのか多くの人が注目した。前日に、同じくJ1昇格を果たした大宮がデビュー戦をモノにしているだけに川崎からやって来た多くのサポーターも勝利を期待したが、J1は、そんなに甘くはなかった。

監督や選手たちも口にしていたように判断のスピード・プレーのスピードが明らかにJ2とは違っていた。選手やシステムに対しても適応する能力のスピードが速く優れている選手が多い。このスピードは選手個人としてもチーム全体としても高い意識を持って日々トレーニングしていくことで対応していくことができ、身体も頭もJ1のスピードに十分慣れてくるはずだ。ジュニーニョのように個人的に特質した高い身体能力を身につけたくてもそうはいかないが、これから何も考えずにトレーニングし試合でプレーしていたらJ2の川崎のまま変わらないだろう。

アウェイという戦いにくい状況の中、柏に優位に試合を展開されながらも全員の力で追いついたことは、川崎の選手たちにとって次節につながる意味のある貴重な開幕戦となった。

2005年03月17日

もっとずる賢く!

クラブ史上最高の24,332人が入った等々力競技場での開幕戦は後半89分、浦和レッズDF闘莉王のヘディングシュートで追いつかれ、あと一歩のところでフロンターレは勝利を逃した。

試合前に関塚監督と話をしたとき「立ち上がりから行きたい!点を取るなら立ち上がりだ!」と強い口調で語っていたように、前半の立ち上がり5分ジュニーニョ、後半の立ち上がり7分には我那覇と点を取るべき人が取り、監督の描いていた理想的な勝利へのプラン通りに試合を進めることが出来ていた。しかし、浦和の経験豊富なFW岡野の投入で流れを変えられ1点差まで詰め寄られ最後までリードを守ることができなかった。

選手たちは昨年のJ1リーグ 2ndステージ覇者に対し、攻守にわたりよく戦っていたが1点リードしている状況から終盤の時間帯でのプレーが甘かったように思えた。残り時間が少ないときほど集中し、リスクが少ないプレーをすることが大事で、ボールキープに入ることや相手が一番嫌がる時間を稼ぐ方法はある。試合に勝つために「もっとずる賢いプレー!」をしてもいいのでは。サッカー選手であれば2点差は危険だということはわかっていたはず。経験の差という見方もあるが、それ以上に「ずる賢さ!」に差があるように思えた。浦和は悪いなりにフロンターレから最終的に3点奪った。

勝利するためには正直すぎるプレーは危険で、なんとしても追いつきたくてポジションまで崩して攻め続ける浦和に対して、もっともっと「冷静!」になり「ずる賢く!」戦うことも必要だった。

この日の浦和は持ち前のスピードは影を潜めた。FWエメルソン、田中達、MF三都主、山田暢ら速い選手が揃い、相手の攻撃陣は「フリーにしたら危険だ!」という高い意識がフロンターレの選手たちにはあったため、相手の動きを想定し相手より先に動き出したり、粘りある集中した守備が出来ていた。

逆にフロンターレがMFマルクスやFWジュニーニョらを中心に浦和のお株を奪うスピードあるワクワクする攻撃を随所に見せてくれた。2試合連続で引き分けに終わったものの、今の浦和にはない、チームワークの良さがこの試合で表れていた。

今後はナビスコカップを含め、ますます楽しみなカードが目白押し!超満員で膨れ上がる等々力で、これからも熱い試合を見たい。

2005年04月06日

裸足!

日本では、Jリーグ開幕前から既に多くのブラジル人選手がプレーしている。
我が川崎フロンターレでもこれまでに30人を超えるブラジル人選手が在籍していた。
サッカー王国ブラジルは、世界各地に選手を輩出し、チームの軸として活躍している選手も多い。なぜサッカーといえばブラジルなのか?ブラジル人はなぜサッカーが上手いのか?

W杯に5度優勝している実績や古くからの歴史、日本とはまったく反対に位置する国で、気候や環境や文化の違い、国民性など日本にないものがたくさんある。
ブラジルは才能溢れる選手の宝庫だ。今世界でもNo1と言われるスタープレーヤー、ロナウジーニョは子供の頃から路上で「裸足」でサッカーをしていたそうだ。

ブラジルといえば、攻撃的サッカーで、なんといっても個人技の高さだろう。サッカーでは、戦術やシステムなど大切なことはたくさんあるが、最終的には個人技に行きつく。個人技を高め、能力が高い選手の多い集団をつくることがレベルを上げる。

ブラジルの子供たちは、小さい頃に裸足でボールを扱っていた経験から、タッチをより敏感に感じとり、よりフィット感が増す感覚を味わっているため、ボール扱いが優しく柔軟で自分の思い通りにプレーできる。また、砂浜であったり、泥でぬかるんでいるグラウンドであったり、アスファルトの硬いピッチであっても走ったり止まったりするときには、滑らないように転ばないように足の指で地面をつかむようにする。小さい頃から足で地をつかむ感覚が自然と養われていたため、大人になって靴を履いても、足が動く感覚は同じだ。地面を蹴らないようにボールをしっかりと捉え、バランス感覚や強靭な足腰を身につける。

ブラジルの子供たちは、プロ選手の試合をスタジアムやテレビで見たあと、路上で自分たちのルールの中、裸足で憧れの選手たちになりきり、テクニックを真似し、楽しみながらプレーしている。例えボールがなくても、歪なボロ布をボールにしてでもプレーする。そんな中で、自然にサッカー選手になる要素を見につけて行く。ボールタッチなどプレーの感覚やゲームの駆け引き、勝負に対してこだわり、楽しみながら将来の夢でもあるサッカー選手を目指す。

日本の子供たちとは、環境の面で大きな違いがあり、路上で、裸足でサッカーをすることは難しい。足が痛くなるような場所でわざわざサッカーをすることはない、裸足で足が痛くなるまでボールを蹴る必要もない、足が冷えるまで裸足でいる必要はない。しかし、小さい頃から裸足でボールリフティングなどのボールコントロールを重視することは、サッカー選手として重要な要素を養うことができる。また、家で靴下やスリッパで過ごしているより、できるだけ裸足で生活することを心がけることで健康増進などのいい効果も得られるのではないか。

ふと見ると靴下を履くのを嫌がり脱ぎ捨てている我が家の息子。「裸足」は自然な状態であり大切なことだと感じ、チェック!してみた。

2005年04月11日

お前の武器は何だ!

先日からU-15のサポートを行うことになった。
中学校年代は、個人差はあるが、肉体的にも精神的にも著しく成長する難しい時期でもある。
そんな子供たちにとって、自分がサッカーを通してこの時期に経験してきたことや、技術的な部分で気がついた点など話し合ってサポートしていくことで、彼らがサッカー選手として少しでもいい方向に成長できれば幸いだ。

4月に入ってすぐフロンターレのジュニアユース(U-15)が私の母校である静岡学園高校新1年生と練習試合を行った。静岡学園高校は、私にとってサッカー選手に一番大切な個人技術の土台を築くことのできたところであり、ここに来なければ絶対にJリーガーとしてプレーはできなかった。
その恩師である井田監督は、昔と変わらない風貌でカリスマ的な雰囲気を醸し出していた。

試合が始まっても、たまに声をかけるくらいだ。ドリブルで持ちすぎる選手がいても、GKやDFがボールを持ちすぎても決して前に蹴れとは言わない。しかし、ある選手のプレーで力強い口調で話し始めた。

「おぃ!お前の武器は何だ?」「何やっているんだ!試合でお前の武器を出さなくてどうするんだ」「お前の得意なものは何だ?」ドリブルだろ!突破だろ!積極的にチャレンジしろよ!と言わんばかりの口調だ。
「試合やっている意味がないよ、それじゃ!上手くならないよ!」
井田監督は、余計なことは愚だ愚だ言わず、選手の持っている一番いい部分を引き出させることを伝え、後は自分で考えてプレーさせた。そんなシーンがとても印象的であり、井田監督の元で私が学んできた大切なことでもあった。

先日、U-15のトレーニング終了後、選手たちに「自分の武器は何か知っている人?」と尋ねたところ21人中3人しか手を上げられなかった。サッカー選手にとって特徴は絶対に必要で「自分の武器!」を持っていないとトップに残っていけないと思う。今の子供たちは自分の時代に比べ、はるかに上手だが、個性のある選手が少ない気がする!ドリブルができ両足でパスが出せシュートも打てる。いろんな情報も入ってきて持っているが、教えられすぎている選手が多い。全体的にみんな上手で無難にプレーする。無難にプレーすることは勿論大切なことで、そういう選手もチームには必要かもしれない。しかし、そういう選手ばかりではチームは成り立たないし強くはなれない。見ていても楽しくないし面白くない!自分の武器といえるだけのプレーができるように普段から学び考え創造しチャレンジする。失敗して悔しい思いをして、また練習しチャレンジする。コーチから言われて動くように、型にはめられるのではなく、できることなら自分で考えプレースタイルを作っていく選手になってほしい。個性がある選手の集まりが、サッカー本来のチームの姿であり、みんなにサッカーの楽しさ夢や希望を与える。

指導者は、いくら自分のやりたいサッカーがあっても思い通りにはいかないものだ。
選手たちを見て、その選手たちに合ったシステムや戦術で戦うことが必要で、選手の個性を活かせるポジションに彼らを当てはめてあげれば「武器!」は上手く機能するだろう。選手たちによってサッカーのスタイルは創られる。

「お前の武器は何だ!」と聞かれたとき「俺の武器はこれだ!」と言えるような強いものがある選手はこれからも成長できるだろう。U-15の中には特徴ある頼もしい選手が多い。これからも選手の個性を引き出してあげられるような指導を心がけていきたい。

2005年04月19日

自分に投資!

サッカーというスポーツは、プロサッカー選手としてピッチに立てる年数は平均的に短い。
野球の場合、平均28~29歳に比べ、サッカーの場合は、平均24~25歳だといわれている。
野球に比べてサッカーは、90分間激しくフルに動きまわる、とてもハードなスポーツである。ハーフタイムが来るまでは途中、作戦タイムも休憩もない。環境も様々、監督も頻繁に交代し毎年新戦力も加入する状況で11人しかピッチに立てない厳しいスポーツがサッカーだ。
私は、プロサッカー選手としては長い、35歳までプレーすることができた。

何故ここまで長くプレーできたかは、様々な要因があると思う。勿論、運も良かったのだろう、トップでプレーするための技術的なことや、チームメートを含め周りの様々な人たちとのコミュニケーションの取り方も大切なことだと思うが、どれだけ自分自身がサッカーを愛し、どれだけサッカー選手として長くプレーしたいか、自分自身の身体に、お金と時間をどれだけ投資することができたかという自己管理が重要ではないかと思う。

私は、清水エスパルスに在籍していた1994年頃、ドリブルで相手を交わすときや前線に飛び出すときに身体の切れがよくなかった。ゴール前でシュートに入るときや相手と競っている状況で踏ん張るときに力が入らないこともあった。年齢のせいなのか?疲労でただ身体が重いだけなのか?「そのうち戻るだろう!」しかし、なかなか本来の切れには戻らなかった。筋力トレーニング・整体・マッサージなどプラスになるあらゆるものは取り入れたが、何かが違う・・・。いろいろ悩んでいるとき、以前TVでスポーツ選手の歯の噛み合わせは重要だということを思い出した。噛み合わせが悪いと力が入らないことを思い出した。そこで私は直ぐに歯医者に相談し、奥歯の噛み合わせなどの治療を行うことにした。私の奥歯は既にボロボロの常態で上手く噛み合わない。そこで、トップでプレーし続けたい思いから、大きな決断をした。奥歯をインプラント(人口歯根)にすることだった。インプラントは、自分の歯の替わりに人工の歯根を顎の骨に埋め込み、その上に人工の歯を作製して噛み合わせを回復する治療法。固定式であるためガタついたりせず、自分の歯のように強く噛めるようになる。治療期間は約半年で、金額的にも高額、普通では考えられない決断だったのかもしれないが、しっかり歯を治し、グランドで自分のプレーを再び表現したい。ピッチの上でチームメートやサポーターともう一度、喜びや感動を味わうためには、自分の身体に高いお金を投資することくらい安いものだと思うのが私の考えだった。

その後、信じられないようだが、噛み合わせが上手くいったことで、本来の自分のプレーを取り戻すことができた。改めて歯の大切さや微妙な感覚だが身体のバランスの重要性を感じた。歯を治すことにお金や時間をかけるより、自分の趣味やファッションなど楽しいものにお金や時間を費やす選手も多い。選手寿命の短いサッカー選手は、お金や時間の使い道を少し考え、変えるだけで選手として一年でも長く、一試合でも多くプレーできることもある。私は、その可能性に賭けるのが、本当に心からサッカーを愛し、プロといえる選手なのではないか。お金をケチって別のものに使っていたならば、私のプレーは変わらず、35歳までピッチには立てなかったかもしれない。

「生かすも殺すも自分次第!」常に現役時代に私が思っていた言葉である。自分が強い意思を持ち常に望めば、変わることができ、何も考えず思わず望まなかったら変わることはできない。選手が持っているものを生かせるか生かせないかは自分に強い思いがあるか、それを実行に移せる強い意志があるかどうか、サッカーのためにどれだけ情熱を注ぐことができるかだ。
「自分に投資!」悪くはないのでは・・・。

2005年04月25日

ドーピング!(前編)

『競技者の健康を害し、フェアプレーの精神にも反する。反社会的行為であり、ずるくて危険な行為を容認することは健全なスポーツの発展を妨げる』
Jリーグでは、毎節ドーピングの検査が行われている。ドーピングコントロール委員会によりJ1・J2の試合から無作為に1試合を選びます。ドーピング対象試合に出場するJクラブのチームドクターは、試合開始前72時間の間に選手に処方させた薬物(薬品名、診断名、投与量、投与時期、投与期間、投与方法)その他必要事項を記入し、試合開始前にドーピングコーディネーターに提出しなければいけません。

両チームから2選手ずつを抽選で決定します。ドーピングテスト対象選手の選抜は試合開始前に両チームの代表者が立会い、対象選手を抽選で選び、ハーフタイム時に各チーム代表者立会いのもと封筒を開封し確定します。
試合後に尿検査を行い、FIFAが禁止している薬物を使用していないかチェックします。ドーピング検査で禁止物質が検出され、違反が明らかになった場合、出場停止のほか、チームにも3千万円以下の制裁金が科せられます。それは治療目的であっても制裁が課せられます。
私は実際に選手時代4回ドーピングテストを行いました。ドーピングテスト対象選手は試合終了後直ちに、ピッチからドーピングテスト実施場所へ向かわなければいけません。

1996年清水エスパルス在籍時、ガンバ大阪戦(日本平スタジアム)で私はベンチスタートでした。この日、ドーピング対象試合であることを試合前に聞かされ「当たりたくないなぁ!」というのが本音であり、選手の正直な気持ちだと思います。それは、ドーピング検査で決められた尿を採取し、出るまで帰れないことや、出なければ余計に水分を採って一定量以上の尿を出さなければいけないため、お腹に負担がかかることや、ドーピングで禁止薬物を使用していないのが自分自身わかっていても、検査をさせられることで精神的にも面倒なことだったのです。

前半のスコアーは0-2でガンバがリードしている。後半に入りベンチ横でウォーミングアップを続けているが出番はない。そんなとき、福岡ドクターから「おめでとう!ドーピング検査だから・・」と声をかけられた。ハーフタイムでの開封で2選手のうちの1人になってしまったらしい。このまま試合に出場することがなければ、ベンチからそのままドーピングテスト実施場所に向かうことになる。後半も残すところわずか、敗戦濃厚だったが終了間際で伊東輝悦、永井秀樹のゴールでエスパルスが土壇場で同点に追いついた。奇跡的な追い上げで状況は一変した。延長に入り突然アルディレス監督から私に交代を告げられ出番がまわってきたが、このときほとんど出場する気配がなかったことから、ドーピングを控えて普段より多めに水分を採りすぎてしまっていた。お腹には少し違和感は残ってはいるもののプレーには問題なく、延長前半14分、伊藤優津樹からのパスをガンバゴール右隅に流し込み貴重な決勝Vゴールを決めることができた。延長戦で決めれば勝ちのVゴール方式だったため、私のゴールでエスパルスが勝利を掴んだ。試合終了後ヒーローインタビューもろくにせず、ドーピングテスト実施場所へ関係者に付き添われ向かった。

2005年05月03日

ドーピング!(後編

部屋に入るとドーピングドクターとドーピングコントロールコーディネーターがいて準備に追われている。たくさんの飲み物が用意され、テレビに映画のビデオテープまで置いてあった。自分の着替えはマネージャーが全部移してくれていた。まず、ストレッチをしてクールダウン。試合を勝利で終え、しかもVゴールを決めたため、チームメイトとは話が弾んだ。汗が引くのを待ってシャワーを浴び、尿が出るまでひたすらチームメイトと話しが続く。

私は出場前に水分を多めにとったことで比較的直ぐに検査できるような気がして、扉がないトイレに入りドーピングドクターが近くで監視する中、75ml以上の尿を採り終えた。採取した尿は直ちにボトルAとボトルBに50ml、25ml、に分けられる。採取後、しっかりと栓を閉め、選手の面前で発泡スチロールの箱に入れて封印する。ドーピングコントロールコーディネーターが「尿検査の登録」という書式に必要事項を記入、選手と付き添いのスタッフがそれを確認し、サインし終了する。

1994W杯アメリカ大会でアルゼンチン代表MFディエゴ・マラドーナ(当時33歳)が6月25日のナイジェリア戦後に検査を受けて陽性反応を示した。マラドーナは「市販の鼻炎薬を飲んだ」と弁明したが、興奮剤のエフェドリンを含む5種類の禁止薬物が検出。FIFAはディエゴ・マラドーナを大会終了まで出場停止とした。
欧州ではオランダ代表で当時セリエAのユベントスで活躍していたMFダビッツから筋肉増強剤のナンドトロンが検出され、4ヶ月間の出場停止処分となった。また、同じくオランダ代表で当時スペインリーグのバルセロナで活躍していたDFのF・デブールもドーピング疑惑で出場停止11週間。中心選手の2人を欠いたオランダ代表はW杯予選で敗退してしまった。

なぜドーピングはいけないのかというと、(1)「スポーツ固有の価値を損ねる」スポーツ固有の価値には、倫理観、フェアプレー、誠実、健康、優れた競技能力、人格と教育、喜びと楽しみ、チームワーク、献身と真摯な取り組み、規則・法則への敬意、自他への敬意、勇敢さ、共同体・連帯意識があげられ、これらの価値がスポーツの中で、またスポーツを通じて培われると期待されています。決して優れた競技能力だけに価値を認めているのではありません。良い成績を残したとしてもドーピングに手を染めた選手は絶対に認めてもらえません。(2)「ドーピングは社会悪になる」 ドーピングで勝利を得ることができるとすれば、それはルール違反を認めることになります。スポーツ自体の価値がなくなり、社会にも悪影響を与えます。特に一流選手には青少年に対する役割モデルが期待されます。選手がくすりを使って一流になっているとすれば、必ずそれをまねする青少年が出てきます。薬物乱用自体が違法行為であるだけに、くすり欲しさに犯罪にまで発展しかねません。(3)「ドーピングは選手の健康を害する」 ドーピングの代表的な方法はくすりを飲むことです。筋肉増強剤(正確には蛋白同化剤)や興奮剤ですが、摂取したくすりを早く体外に出すための利尿剤も禁止されています。これらは本来れっきとした「くすり」です。病気を治すために開発された薬剤なのですが、その効果を競技力向上に使うのがドーピングです。そして副作用という大きな問題があります。筋力や持久力など競技力向上につながる部分はあっても、その反面、身体への害も大きいのです。ドーピングが原因で選手生命どころか生命そのものを失ってしまったり、さまざまな後遺症に悩む例が数多く報告されているそうです。

サッカーをする理由は、好きだから!楽しいから!サッカーで自分を表現し、挑戦すること、チームの皆で協力してあげた得点や勝利は本当に価値があり喜びがあり、感動を味わうことが出来る。さまざまな理由でサッカーをするが、それは一定のルールがありフェアに行わなければならない。ルールが違ったり、フェアでなければサッカーの試合にはならないしスポーツの意味がない。サッカーに限らずスポーツの世界では、勝者・敗者関係なく最大限に力を発揮した選手やチームに対して感動させられ、温かい拍手が送られる。くすりに頼るのではなく限界に挑戦することが選手の姿である。そして、チームとしての選手管理も大事なことだが、選手としてただプレーするだけでなく、選手自身がドーピングを含め自己管理など様々な知識を持たなければならない。「くすり」は使い方を間違えれば「りすく」を生むのだから!

2005年05月12日

アウェイ!(前編)

サッカーの試合は、Jリーグでも、プレミアリーグでも、セリエAでも、ホームゲームがあれば必ずアウェイゲームも存在する。ホームゲームは、住み慣れた環境で移動時間も少なく、地元サポーターも多く詰め掛け、戦い慣れた試合会場で安心して選手たちはプレーに集中することができる。それに比べ敵地に乗り込むアウェイゲームは大変だ。環境の違い、移動時間が長く、戦い慣れていないピッチ、多くの相手サポーターの存在、時には主審にも左右されるなど、ホームチームにとって有利な状況は間違いなく、アウェイチームは最善の準備をして戦わなければいけない。ほとんどのチームは、移動に時間がかるため前日入りするのが基本で、移動は選手たちの身体に大きな負担がかかる。試合でいいパフォーマンスをするためにも前日入りしベストのコンディションをつくる必要がある。決められた宿舎で決められたスケジュールの中行動し、選手やスタッフが綿密に情報を交換するなどコミュニケーションをとってチームが一つになりアウェイを戦う。

私が現役時代、アウェイでの試合は、午前中にトレーニングを行って、午後移動することが多かった。移動はバス、新幹線、飛行機、試合会場によって移動手段は変わる。試合で必要な全ての用具や荷物はホペイロ(用具係り)が準備し運んでくれるため、選手たちが持っていくものは宿舎(ホテル)で必要な私物だけだ。

宿舎に着き各自の部屋に入ると直ぐに、手を洗いうがいは欠かさず行って、楽な格好に着替え夕食会場へ移動する。食事は必ずヴィッフェスタイルで好きなテーブルで自分たちが食べたいものを食べたいだけ摂ることができた。勿論何をどれだけ食べたらいいのか?バランスも考えた。食事の最後には好きなコーヒーを飲みながら、明日の対戦相手の試合映像を見たり、新聞を読んだり、チームメートとサッカーや旬の話題に花が咲いた。その後、トレーナーによる治療やマッサージの時間が振り分けられているため程々に部屋へと引き上げる。選手によってマサージは当日やりたい選手、まったく必要ない選手など様々だが、私は前日に軽く解してもらう。強すぎると次の日に残ってしまうため、自分の身体には特に気を遣った。

部屋での過ごし方は選手によって異なる。読書する選手、TVを見たり音楽を聴いたりする選手、プレイステーションを持ってきてゲームや映画を見て楽しく過ごす選手もいた。部屋にずっと篭る選手や、部屋にいるのが退屈な選手は、トレーナーやチームメートの部屋を行き来し会話を楽しんだり、近くのコンビニへ飲み物など買出しに行くこともあった。例えばそこが特別な場所で両親や親類、友人や知人が住んでいて、尋ねてくることもあったが、極力短めに済ませた。
私は、必ず寝る前に目を瞑って明日の試合のいいイメージ映像を頭の中に描いた。例えば、自分がドリブルで相手を交わしゴールを決めたシーンや、味方の得点につながるパスを出したところなど、いい場面を創造する。けして悪いイメージは描かない。明日自分が出したいプレーやゴールを決めて喜ぶシーンを描き試合での活躍を信じて気持ちよく眠った。それが効果あるかないかは分からないが習慣になっていた。

朝起きて朝食は自由だった。私は普段から3食しっかり摂ることが習慣になっていたため、食べなければ力が出せないタイプだ。その後、試合前の3~4時間前にパスタやうどん、おにぎり、パン、バナナなどの軽食が必ずあり、そこで試合までの最後のお腹の調整をする。ナイターゲームであれば、試合当日朝、近くの空き地や公園で散歩や体操、軽いトレーニングをすることもあった。そんな時は朝食を抜いて昼食をしっかりと摂り、最後に軽食で調整する。食べすぎて消化にエネルギーを使いすぎては良くない。軽食が終われば出発前のミーティング。ミーティングには、出発の準備を整えて集まる。ホワイトボードを使用しスターティングメンバーの発表、相手の予想メンバーやシステム、相手選手の特徴などが伝えられ、セットプレーの確認、何よりもアウェイでの試合ということで自分たちの試合の入り方や戦い方が一番重要視される。

宿舎ではこのように過ごして、いざ試合会場へと向かう。宿泊先から競技場まではバス移動する。バスで選手たちの座る場所は、ほとんどといっていいほど決まって同じ場所だった。願懸けなのか?こだわりなのか?私の場合も、いつもと同じように落ち着く席があった。この頃になると選手たちの表情は一段と戦う顔になりバスの中もいい緊張感が漂っていた。クラブによってスケジュールなど異なるが、私の経験したほんの一例で、こうして選手たちはシーズンの半分以上のアウェイ試合を経験する。

2005年05月20日

アウェイ!(後編)

サッカーは、90分間に様々なことが起こる。予想できないことや突然のプレッシャーに襲われたり、同じ状況などなく、何かがいつも違う。一生同じメンバーで戦うわけではないし、相手も違う。勝利するために全力を尽くすが、何が起こってもおかしくないそんな状況を選手たちは即座に判断し対応していかなければいけない。それには、技術的にもしっかりとしたものが必要で体力的にもタフであることや、どんな状況になっても乱れない動じない精神力が必要だ。それは、各選手に個人差はあるが突然身につけることはできないし、急に性格を変えることなどできない。小さい頃からの過ごし方や教育なども大きく関わってくる要素はあるのではないか。

私がサッカーを始めた静岡県藤枝市にある青島サッカー少年団は、毎年、夏と冬に東京都練馬区にある上石神井北小学校とサッカー交流を行っていた。入団した小学校3年生の夏には、私たちの住む藤枝市に上北小がやって来て、選手たちの家に宿泊し、冬には青小の私たちが彼らのところに行って、各選手の家に宿泊させていただき選手の家族と過ごした。勿論サッカーの試合がメインであり、お互い勝負にこだわり白熱した試合がいつも行われた。上北小の子供たちの成長が自分たちの刺激にもなっていたため、練習の成果を見せるためにも、半年に1回の再会を心待ちにしていた。その他にもよみうりランドでの大会への参加など小さい頃から、チームで遠征し違う環境で生活し違う地域の子供たちと試合を行った。

私がサッカーを始めた静岡県藤枝市にある青島サッカー少年団は、毎年、夏と冬に東京都練馬区にある上石神井北小学校とサッカー交流を行っていた。入団した小学校3年生の夏には、私たちの住む藤枝市に上北小がやって来て、選手たちの家に宿泊し、冬には青小の私たちが彼らのところに行って、各選手の家に宿泊させていただき選手の家族と過ごした。勿論サッカーの試合がメインであり、お互い勝負にこだわり白熱した試合がいつも行われた。上北小の子供たちの成長が自分たちの刺激にもなっていたため、練習の成果を見せるためにも、半年に1回の再会を心待ちにしていた。その他にもよみうりランドでの大会への参加など小さい頃から、チームで遠征し違う環境で生活し違う地域の子供たちと試合を行った。

自分たちの住み慣れた場所や戦い慣れた相手だけでなく、行ったことも見たこともない環境がそこには実在することや、自分よりレベルの高い様々な子供たちがたくさんいるということを知るのは、自分自身に視野が広がり、大きな夢や目標を掲げることにもつながり、とてもいい体験になった。お世話になった家には、その家のルールがあり、生活の違いや言葉のイントネーションや方言の違いがある。異なった環境に戸惑ったり、藤枝の田舎育ちの私たちが東京の都会育ちの子供たちと接するだけで意識してしまいコミュニケーションのとり方に迷ったり、今思えば笑い話しでいい思い出だったが、このような小さい頃からの経験があったからこそ、一人ではけして成り立たないチームスポーツ、サッカーでプレーができたと思う。

また、中学校2年時には、青島サッカー少年団の先輩にあたる菅藤さんの家に下宿した。私がサッカーを続けて来て、初めて体格の差を痛感していた時期で、そんな時に親同士の間で話が弾んで決まったらしい。中学校から帰宅するとき私の家までは10分もかからない近さだが、逆方向の30分以上かかる菅藤家に帰る。友達からは不思議に思われたが気にしなかった。家には厳しいおじさん、優しいおばさん、高校選手権で活躍し、藤枝市役所サッカー部GKの長男正則さん、藤枝東高校サッカー部の選手が2人、次男GKの昭義さんと、東京の上北小出身の下宿人、落合さんだ。話題はいつもサッカー!サッカー!サッカー!で、珍しい海外サッカーの映像もよく観させてもらった。筋トレやランニングも頻繁に行われ、勿論勉強もやった。そんなサッカー一家の中での厳しい生活が1年間続いた。シーズンの半分以上をアウェイで戦わなければいけないサッカーの世界で、このような経験はとても意味のあるものだったのかもしれない。

今U-15をサポートしているが、上手で練習熱心で特徴ある選手は多い。海外の情報などは頻繁に入って来て世界は近くなっているようだが、実際に行ってみなければ遠い世界だ。できることならこの年代では既に海外遠征を経験させてあげたい。将来Jリーガーとしてプレーするためにも世界を実際に見て感じて経験を積み自分の中に大きな目標や夢を描ければ幸いだ。
場数を踏むことの大切さは、サッカー選手を目指している子供たちにとって、アウェイに強くなるためには絶対に必要なことで、小さい頃からアウェイ(遠征)を経験させることは、どんな状況になっても動じないたくましいJリーガーを育てるためには重要なことだと思う。
サッカーでは、アウェイ試合が多いということを、しっかり理解しておかなければいけないから。

2005年06月03日

小柄な選手の賢い術!

ボールが地面にあることの方がはるかに多いサッカーでは 「体格は関係ない!」、「サッカーは身体の大きさでは決まらない!」と、私は常に自分に言い聞かせプレーしてきた。それは実際に、ディエゴ・マラドーナ(アルゼンチン)、ロマーリオ(ブラジル)、トーマス・へスラー(ドイツ)、ロベルト・バッジオ(イタリア)らがピッチの上でメッセージのように示してくれていたからだ。大柄な選手たちをてんてこ舞いさせるプレーは見ていて気持ちがよく、私がプレーする上で自信を与えてくれたとともに、彼らのプレーから沢山のヒントを得ることができた。

私は現役時代、180cmを超える大柄なDFたちを相手にいつも戦ってきた。まともにぶつかったら当然吹っ飛ばされることは目に見えていてケガにもつながる。現に、元柏レイソルのブラジル人DFネルシーニョ選手にまともに挑んだとき、吹っ飛ばされ手首を脱臼(全治3ヶ月の重傷)、即病院に搬送され手術を余儀なくされた苦い思い出がある。そんな経験を繰り返し、大柄な選手たちとも対等に、いや対等以上に戦うためにも、もっと「賢い術!」を身につけていかなければならなかった。

小柄な選手は、自分を生かす努力が必要で、大柄な選手が敵わない何かを持っていれば十分戦えるはずだ。その何かは、ボールを運ぶ・止める・蹴るという技術的なことであったり、走るスピードがあったり、様々な状況での判断するスピードが速かったり、局面での発想や想像力が豊かだったりもするが、「賢さ!」というものがあってこそ高い技術などを発揮できると思う。例えば、守備をしているとき、自分のマークする相手は勿論ケアーする。しかし、ケアーしながらも 「この相手からできるだけ離れてやろう!」、「攻撃に切り替わったとき相手を混乱させてやろう!」と、いつも攻撃のことを考えながら準備しておくことも必要だ。味方選手がボールを奪った瞬間には、できるだけ相手から離れた有利なポジションでボールをもらったり、相手の裏のスペースに向かって既に飛び出している必要がある。相手のマークが離れていれば時間があり、大柄な選手に潰される心配もない。前を向いてプレーすることができれば自分の良さをもっともっと引き出せるかもしれない。

接近戦であれば、DFが激しくチャージできないペナルティエリア内が望ましい。よく観客からは「あいつ守備しないでサボってるよ!」と思われがちだが、全てが「サボってる!」わけではなく、攻撃のために中途半端なポジションをとったり、相手DFと駆け引きしたり、常に次の状況を予測し相手の隙を狙っていることもある。真面目にプレーする中にも、賢く自分を生かすことを常に考えていくことも大切である。

指導者の中には、小柄な選手に対して 「あたりが弱いなぁ!」と嘆いたり、我慢できなくメンバーから外したり 「もっと力をつけて対人に強くならないと!」など、強さには強さで対抗しようと思っている無責任でセンスが無い人がいる。勿論、対人に強くなるための努力はしなくてはいけないが、実際直ぐには効果は出ないし難しい。ならば、極端だがまともに大柄な相手に近づかなければいいだけの話だ。近づくことで自分の弱さを露呈することになる。身体の強い選手には、できるだけ身体の強い選手が対抗すればいい。テクニック・スピード・高さを兼ね備えた選手がいれば最強であり、それにこしたことはないが、そんな選手はそうたくさんはいない。日本の小柄な選手が、生まれつき優れた強靭な身体を持った海外の選手たちとまともにぶつかったら勝負は見えている。

体格差だけではなく、様々な部分で埋められないことは当然あるが、それは違う方法でクリアーできることがあるはずだ。フロンターレにも今野選手のように判断に優れ、気の利いたプレーができる、お手本のような選手がいる。小柄なら小柄なりに大柄な選手とぶつからない「賢い術!」を身につけていくことができれば、ピッチで自分の持ち味を十分発揮できるはずだ。
小柄な選手でも、きっと観客からは堂々とした大きな選手に映るに違いない。
サッカーは体格ではなく、いろんな人に可能性があり、夢のある面白いスポーツでなければいけないから…

2005年06月16日

サッカー映画!

先日、「リトルストライカー!」という映画をTVで見た。
海外の試合は、よく見るが、サッカー映画は久しぶりだった。
主人公はイギリスのマンチェスターに住む、マンチェスター・シティの大ファン、ドジで気弱なサッカー少年ジミー・グリンブル(ルイス・マッケンジー)。ジミーは、グリーノック校のサッカー部に所属している。一人で練習しているときは、ドリブルやリフティングは上手だが、チームではマンチェスター・ユナイテッドファンの少年たちにいじめられ仲間外れにされたり、人前で行う試合では思うようにプレーできない。

ある日、不思議な老婆から 「シティにいたロビー・ブルーワーが履いた」という古いサッカーシューズを貰う。そのシューズを履いて試合に出場すると驚くようなロングシュートを決めることができた。皆は、古いシューズを見て最初は笑っていたが、ジミーが活躍するにしたがって信頼するようになりチームに欠かせない存在になっていった。ジミーの活躍でグリーノック校は決勝戦まで勝ち進んだ。決勝の舞台は憧れのプレミアリーグ、マンチェスター・シティのホーム、メイン・ロード・スタジアムだ。

試合当日ジミーは、一人の高慢なチームメート、ゴードンに履いていたシューズを捨てられてしまう。困ったジミーだったが、元シティの選手でコーチのエリック・ウィラル(ロバート・カーライル)からスタジアムのショップで新しいシューズを買ってもらいプレーするが、いつものようにはいかない。ハーフタイムにジミーは「老婆から貰った魔法の掛かった古いシューズでなければプレーできないんだ!」と、肩を落とすが、コーチのウィラルは 「プレーするには勇気が必要なんだ!」と、自分の経験を話し、ハリー(ジミーのママの昔の恋人/レイ・ウィンストン)もまた、ジミーはいつものようなプレーができるはずだと、シューズの謎を解くためタジアム内を駆ける。そして、ブルーワという選手など過去にはいないことを知り、古いシューズは魔法などかかっていなかった。「これまでのプレーは全て自分の実力だったんだ!」と、自信を取り戻す。後半、ジミーは見違えるようなプレーで優勝に貢献する。試合後に、ユナイテッドのスカウトから 「是非うちに来ないか?」と、誘われるが 「僕はシティに行く!」と答えた。ジミーが、世界的ビッグクラブよりシティを選んだところは、最高に格好良く思え、気持ちがいい瞬間だった。練習でできたことは試合でも必ず出せるはず。力を発揮するには、自信や勇気が大切だ。

この映画は、サッカーの母国イギリスと1998W杯でも優勝したフランスの両国で共同制作され、サッカーでは世界的に有名なマンチェスターが舞台だ。これを見ているだけでも雰囲気が伝わりワクワクしてきてサッカー好きにはたまらない作品だ。内容も少年はサッカーが大好きで、優しくて、いじめられても自分の力で段々たくましく変わっていく様子が描かれている。
自信を持ってプレーすることの大切さなど、いろんなことを感じさせてくれる作品だった。

また、この映画と似た 「ボールのまじゅつしウィリー」というサルが主人公の絵本がある。私は、サッカーに関する絵本だったため興味があり、思わず購入した。娘が小さいときには、この本を何度も読んであげていたが、また近々息子(もうすぐ2歳)にも読んであげたいと思う。是非、小さいお子さんがいる方はチェックしてみてください。

映画を見たり、本を読んだときの感じ方は、人それぞれ自由だ。作られたものだったり現実離れしていることも多いが、受け止め方次第では、自分を見つめ直すきっかけになったり、これからも頑張って行こうと思えたり、人に伝えられることなども多い。見て読んで感受性を得たり、想像力を高めたりすることも重要で、何よりも前向きになることができれば、最高で貴重な時間を過ごしたことになるだろう。

2005年06月24日

ファン感謝デー!

川崎フロンターレ「2005年ファン感謝デー」が6月25日(土)に開催される。
昨年までは、トップチーム練習場の麻生グランドなどで行われていたが、地域密着を目指し創設当時から地道な活動をしてきたことや、チームも5年ぶりにJ1復帰を果たすなど、着実にファンが増えたことから、フロンターレのオフィシャルスポンサーでもある「川崎競輪場」の協力で行われることになった。

麻生グランドで行われていたファン感謝デーは、山間の自然な環境で、クラブハウスや緑色の芝など、普段トレーニングしている場所で、選手たちをより身近に感じてもらうことができたという利点があったが、嬉しい悲鳴で収容できる人数も限界に達した。

ファン感謝デーは、日頃応援してくれている方々へ選手・スタッフが感謝の意をこめて行われる後援会会員を対象としたお祭りで、私も選手時代から特にこの日は、一人でも多くのファンの方々に楽しく過ごしてもらえるように心がけました。

選手たちはサインや写真撮影に気軽に応じてくれたり、ミニゲームやステージでのクイズでハッスルしたり、飲食など出店コーナーの店員になって商品を販売したり、ピッチ以外での一面も見ることができます。
フロンターレの選手を、より知ることができれば、試合でプレーする選手の気持ちに少しでも近づくことができるかもしれない。また、より一層一緒に戦っている実感が沸くはずで、フロンターレのために力強く気持ちのこもった応援をしてくれることが、選手たちに大きな力を与えてくれることになる。

私が出演している「SUKI!SUKI!フロンターレ」もファン感謝デーで番組の収録を行う予定です。是非、皆さん気軽に声をかけてください!運がよければ番組出演があるかもしれません!
川崎競輪場では、大多数のファンで盛り上がることが予想されますが、今年はどんな楽しいイベントになるのか今から楽しみです。
「2005年ファン感謝デー」で、新たな思い出が皆さんの心に刻まれることになるでしょう。

2005年07月06日

11人の仲間!

先日、ファン感謝デーが行われ、楽しい時間をサポーターと過ごしたかと思えばそれも束の間、J1リーグ(第13節~)が再開した。中断してから御殿場ミニキャンプで修正点を中心にトレーニングを行い、7月2日のジュビロ磐田戦を迎えた。7月23日までに6試合を行う過密なスケジュールだが、条件はどのチームも同じだ。関塚監督が話していたように、勝ちきれる安定したチームを目指し戦っている。

以前にもいくつかのコラムに掲載したこともあるが、私が清水エスパルスの一員として、Jの初舞台のグランドにこれから立とうとしたとき、ロッカールームで当時の監督が言った言葉があるので紹介する。『グランドに、エスパルスの仲間は11人いる。この試合で全員調子がいいことは、まずありえない。例えば、1人調子の悪い選手がいたとする、それは残りの10人でカバーすればいいじゃないか!2人調子の悪い選手がいたとする、それは9人でカバーすればいいじゃないか!3人調子の悪い選手がいたとする、8人でカバーすればいいじゃないか!それがチームというものであり、11人で行うサッカーの素晴らしさなんだ。1人の選手が相手にかわされた、「なに抜かれてるんだ!」ではなく、「俺に任せろ!お前のカバーしてやるよ!」という気持ちを全員が持ってプレーすることができれば、チームは一つになれる。なぜなら、自分も調子の悪いときが必ずあるはずだから…』

この言葉が、緊張や不安、これからグランドに立とうとしている自分をどんなに楽にしてくれたことか今でもはっきりと覚えている。選手が少しでもこのような気持ちになれれば、心配することなく自信をもってグランドに立つことができ、いい結果につながると思う。また、サッカーは1対1の局面での勝負が最終的には重要になるが、様々な状況があって、他の選手(チーム)なくしてはその局面には至らない。サッカーは一人ではできない、お互い助け合うチームスポーツであるということを監督の言葉から再認識できた。

HOT6の初戦磐田戦では、ボールを支配され押し込まれながらもカウンターから少ないチャンスをものにした。磐田はチームとしても多くの優勝実績があり代表選手など優れた選手が多い。しかし、フロンターレの選手たちは個人だけではなくチームで戦い勝利した。お互いが助け合いひた向きにボールを追いかけ11人が一つになった。磐田よりはるかに全員で勝ちたいという気持ちが勝っていた。

これから過酷な暑い時期がやって来て、疲労からくるケガや警告の累積による出場停止でメンバーが入れ替わることもある。1シーズン制になったことで、総合力が重要視されてくる中で、チームワークが鍵になってくる。例え苦しい状況になったとしてもバラバラになって崩れず、慌てない冷静なチームでなければいけない。自分を信じて、チームメートを信じて、それにサポーターを信じて…

「グランドの中にはフロンターレの仲間が11人もいる、そして、グラウンドの外にも共に戦ってくれる仲間がいる」ことを忘れないで戦ってほしい。

2005年07月26日

藤枝名物・サッカーエース最中!

最近スカウト業務で全国を飛び回る生活をしているが、私の生まれ育った故郷である藤枝市にも行く機会が増えた。

藤枝市は、2002年W杯の時、セネガルチームのキャンプ地としても使用され、藤枝にもいい芝の競技場が増え、今では高校生の試合が頻繁に行われている。

藤枝に帰郷した際、お土産は一般的に静岡で有名な「お茶」であったり「うなぎパイ」が無難なところだ。しかし、藤枝にも自慢できるサッカーに関係するお土産があったことを思い出した。それは「サッカーエース最中!」だ。サッカーボールの形をしていて中には粒あんが入っているが、とにかくボールの形が妙に美しくリアルで珍しい。

みんな食べるのが「もったいない!」と、話すくらい良くできていてかわいい最中だ。子供の頃から藤枝にあった名物で県外から来たお客さんに、このサッカーエース最中を持たせてあげたり、サッカーの試合で来た人が話のネタに買っていくことも多かった。

藤枝市は昔からサッカーの街と言われるほどサッカーが盛んで、特に藤枝東高校が強くて有名だったこともあり、このお土産ができたことは納得できる。ここで生まれ育った私にとっての自慢の逸品である。

川崎市には、我らが川崎フロンターレというJチームが存在するが、今後、日本代表選手は勿論、J1でタイトルを奪取し、川崎市といえば川崎フロンターレ、川崎市といえば「サッカーの街!」と言われるようになりたい。いやならなくてはいけない!そして「藤枝名物・サッカーエース最中!」があるように、川崎にもサッカーにちなんだ名物が是非できることを願っている。
「川崎名物・サッカー○○○○!」創造してみて!面白いかも・・・

2005年08月09日

プレシーズンマッチ

海外から多くのビッグクラブがプレシーズンマッチを行うために来日した。
レアル・マドリード(スペイン)、マンチェスター・ユナイテッド(イングランド)、バイエルン・ミュンヘン(ドイツ)、フィオレンティーナ(イタリア)、バルセロナ(スペイン)など、そして川崎フロンターレが対戦したイングランドプレミアリーグのボルトン・ワンダラーズFCだ。

私も現役時代に多くのビッグクラブの有名な選手を相手に、プレシーズンマッチを行うことができた。例えば、ブラジルのチームでは、鹿島監督のトニーニョ・セレ-ゾ(ブラジル代表)がMFでプレーしていたサンパウロFC、今年引退した1994W杯MVPロマーリオ(ブラジル代表)がプレーしていたフラメンゴ、イタリアでは、バレージ(イタリア代表)やマルディーニ(イタリア代表)、後にチームメートとなり2トップを組んだこともあるマッサーロ(イタリア代表)がプレーしていたACミラン、バティストゥータ(アルゼンチン代表)やルイコスタ(ポルトガル代表)がチームを引っ張っていたフィオレンティーナなど、今思えば信じられないくらい貴重な経験ができた。

等々力で行われた「川崎フロンターレ vsボルトン・ワンダラーズFC」の記念すべき試合は、川崎初の国際試合で、勿論フロンターレでも初めてであった。ジュニーニョ、アウグストといった主力を欠いてはいたがフロンターレの選手たちは、ホームという慣れた地で激しくかつ伸び伸びプレーしていた。試合はフロンターレが逃げ切ってもおかしくない状況だったが、ボルトンも意地を見せ、辛うじて1対1の引き分けに持ち込み終了した。

ボルトンはスケジュール的にも中一日で試合という厳しい状況で「あのコンディションで、あれだけできればいいんじゃない」という寂しいとも思える声もあがっていた。観戦した人がどう感じるかは自由だが、個人的にはオコチャ選手のタイミングのいいドリブルやフェイントなどは見ていて楽しく、最も沸かせてくれたが、昨シーズン、プレミアリーグ6位のチームがあのレベルだと納得いかない部分はあり「もっとできるだろう!もっとやって欲しい!」と期待していたところはあった。サッカーにはそれほど詳しくない人が見たとき、世界のレベルを勘違いされると恐ろしいとも思えたが、今の時期行う試合はこんなものでも仕方ないのか…。

今回、一早く来日したレアル・マドリードは2戦目こそ素晴らしいサッカーを魅せてくれたが、初戦の東京V戦は、ファンの期待を裏切る形で0-3の完敗だった。来日間近でコンディションが悪いとはいえ、相当東京Vを甘く見たに違いない。現在Jリーグでなかなか調子が出ず低迷している東京Vを相手に、持っている力の半分も出せなかったのでは…。

戦う気持ちが薄ければ当然疲れた身体は動かない。サッカーに限らず何にでも言えることだが、気持ちがあれば多少の疲れもカバーできるもので、高い技術があるレアルの選手であれば十分観客を沸かせられるはずだった。プレシーズンマッチは、世界のスター選手のプレーを実際に見たい、日本のチームや日本の選手が世界を相手にどれだけの力を出せるのか見てみたいと思っている人も沢山いる。

選手自身も戦ってみて実際に自分のプレーが世界に通用するのか、世界との差はどこにあるのか感じたいはずだ。目的もなく、ただのビジネスで終わらせるのであれば、選手のためにもプレシーズンマッチは行わないほうがいい。お金を払って観戦に来てくれている人たちのためにも、サッカーを愛する子供たちのためにも、夢を与えてくれる憧れのスーパースターである以上、ピッチに立ったら真剣に本気でプレーしてほしい。これからも、みんなに手応えがあり収穫のあるプレシーズンマッチであることを期待したい。

2005年08月26日

ボカ・ジュニオルスU-18!

先日、ボカ・ジュニオルスU-18(アルゼンチン) が来日し、日本各地のU-18 選抜チームやJクラブU-18と国際親善試合を行った。私は、U-18 静岡県選抜との試合を観戦した。
ボカといえば、アルゼンチンの強豪で、これまでにもディエゴ・マラドーナをはじめバティストゥータ、カニーヒア、ヴェーロン、パレルモ、リケルメなど世界的にも活躍しているスター選手が在籍し、強くて有名な人気のあるクラブだ。

試合前、今回ボカのチームに帯同していたフェルナンド・モネールに久しぶりに再会した。モネールとは、Jリーグが開幕する前、私が東芝サッカー部でプレーしていた時に、アルゼンチンから来日し、全日空の選手としてプレーしていて対戦したのが初めてだ。私とは何から何まで対照的な選手で、できることならマークされたくない嫌な相手だった。

当時、東芝にもアルゼンチン選手が3名在籍していたことから東芝の寮に、よく遊びに来ていて顔を合わせた。また、アルゼンチンに遠征し、ボカと練習試合を行った際、ボカのホームスタジアム「ボンボネーラ」にも出向いてくれて、ピッチで試合前に記念撮影をしたり、アルゼンチンで過ごした懐かしい思い出がある。その後、Jリーグの舞台でも対戦し、1993年オールスターでは、WESTチームで共に戦い、引退した後も何度か一緒に仕事をした友人である。

そんなモネールがボカのロッカールームまで私を案内してくれて監督やコーチを紹介してくれた。ロッカールームでは、準備を終えた選手たちが、これから試合が始まることを私たちに伝えてくれているかのように気合の入った声を全員で荒げ、全選手の顔つきは戦いモードに入ていた。十字を斬る選手や祈りを捧げる選手など様々で、親善試合とはいえ彼らにとっては毎日が闘いで、そこには真剣さがあり手を抜くということはありえない。

試合は暑さのため、35分ハーフで途中給水タイムが設けられた。試合開始から予想通り、ボカの力強さとスピードが静岡県選抜を圧倒した。途中、技術的にも優れている選手が多い県選抜も意地を見せたが、もう既にプロでも十分通用し、将来アルゼンチンを代表するのであろう逸材の選手たちのプレーは日本選手のはるか上をいっていたように思えた。ゴールへ向かうプレーや相手のボールを奪うプレー「ここはチャンスだ!」というときの抜群のスピードと迫力は、アルゼンチンならではで、特に日本の選手とは異なっていた。若手育成には定評があり、世界に通用するスター選手を次々と輩出している国だけに、今回の親善試合で彼らから日本のU-18 世代が感じさせられたものは大きかったのではないか。今後、上を目指していく選手たちだけに、この試合は刺激になったはずだ。

ボカU-18の若手選手の強烈さを間近で観たことで、FIFAランキング1位のブラジルに次ぐ2位、アルゼンチンの強さを納得し、モネールに再会できたことで、ディエゴ・マラドーナがプレーしていた「ボンボネーラ」を思い出し、久しぶりにアルゼンチンを感じた一日だった。

2005年10月08日

オールスターサッカー!

「2005JOMOオールスターサッカー」が今年も開催される。川崎フロンターレからもJリーグ推薦枠でジュニーニョが出場する。ジュニーニョは「Jリーグを愛し、支えてくれているサポーターの皆さんのために、他の選手と一緒になって最高のプレーを見せたい」と、サポーター思いで、頼もしいコメントを残した。彼ならきっと見ている人が感動するプレーをしてくれるはずだ。

オールスターサッカーは、Jリーグ開幕の1993年から開催された。「'93JリーグKodakオールスターサッカー」という名称で始まり、EASTチームは、川崎ヴェルディ(現東京ヴェルディ1969)、横浜M(現横浜FM)、鹿島アントラーズ、ジェフ・ユナイテッド市原(現ジェフ・ユナイテッド千葉)・浦和レッズ、WESTチームは、清水エスパルス、横浜フリューゲルス、名古屋グランパスエイト、ガンバ大阪、サンフレッチェ広島で、私も運よくWESTのメンバーとして青いユニホーム11番で先発出場することができた。

J開幕の年とあって何から何まで豪華でお祭り騒ぎだった。宿泊先、前夜祭、出場給、勝利ボーナスMVPの商品までもが・・。昨年までJSL(日本リーグ)という観客がまばらな競技場でプレーしていた我々選手たちにとって、Jリーグ開幕によって環境は様変わりし、今まで味わったことのないスケールの大きさを体感した。注目されることで、プロサッカー選手として期待され、ピッチでの役割をしっかりと果たさなければいけないという責任の重さを痛感することになった。


1993年7月17日、神戸総合運動公園ユニバー記念競技場は、これまで味わったことの無い異様な雰囲気の中「'93JリーグKodakオールスターサッカー」は行われた。選手入場の際、一人ずつ紹介されピッチに送り出される瞬間、鳥肌が立ったのを今でも覚えている。清水エスパルスが中心のWESTに対し、川崎ヴェルディ(現在は東京ヴェルディ1969)横浜M(現在は横浜FM)中心のEASTとの対戦。EASTはゆっくりパスを回し個人のテクニックでじわじわとゴールに迫る。一方WESTはスピーディーな展開からチャンスをつくる。私は前半の45分をチームに貢献しようと精一杯プレーした。集中していたせいか時間が経つのが早かった。多くの観客が見守る中、スター選手たちの一つ一つのプレーは質が高く華やかだった。個性ある選手たちと同じ空間でサッカーを楽しめたことは、サッカー人として生涯忘れられない最高の思い出となった。白熱した試合は1-2で我々のWESTは残念ながら破れた。MVPはKAZU(EAST)で高級車を獲得した。

今回で13回目を迎えるオールスターサッカー。人々を感動させ、子供たちに夢を与えるプレーをきっと見せてくれるだろう。今年は大分からどんなプレーを選手たちは魅せてくれるか、今から楽しみだ!

1993/07/17 18:07キックオフ
神戸総合運動公園ユニバー記念競技場
【入場者数】42,790人 【天候】雨
【主審】マーチン・ボデナム 【副審】田中 賢二/片山 義継
WEST TEAM EAST
1 0 前半 2 2
1 後半 0
(清水)レオン 監督 松木 安太郎(川崎)
永島 昭浩/68
 
得点者
得点時間
19/三浦 知良
38/三浦 知良
チーム 選手名 番号 ポジション 番号 選手名 チーム
清水 真田 雅則 1 GK 1 松永 成立 横浜M
大阪 賈 秀全 2 DF 2 勝矢 寿延 横浜M
横浜F モネール 3 3 中西 永輔 市原
清水 堀池 巧 4 4 井原 正巳 横浜M
横浜F 大嶽 直人 6 5 加藤 久 川崎
広島 森保 一 5 MF 6 サントス 鹿島
名古屋 ジョルジーニョ 8 7 木村 和司 横浜M
清水 澤登 正朗 10 8 ラモス 瑠偉 川崎
      10 リトバルスキー 市原
清水 長谷川 健太 7 FW 9 武田 修宏 川崎
大阪 永島 昭浩 9 11 三浦 知良 川崎
清水 向島 建 11      
名古屋 ディド 15 SUB 15 菊池 新吉 川崎
大阪 和田 昌裕 12 12 北澤 豪 川崎
清水 三浦 泰年 13 13 柱谷 哲二 川崎
横浜F 前田 治 14 14 柱谷 幸一 浦和
16 SH 8
5 CK 4
9 FK 5
【MVP】三浦 知良  【敢闘賞】永島 昭浩


2005年10月26日

祝・日本代表選出!

9月27日(火)、川崎フロンターレ初の日本代表・箕輪義信が誕生した。
しかも29歳という年齢での選出は珍しく、これまで自分を高め真面目に努力してきた証しだろう。

今回、東欧遠征でラトビア、ウクライナと親善試合を行った。2006年W杯出場を決めている日本は、開催国ドイツで欧州のチームと戦うことになるため、この遠征はその準備といってもよかったのだろう。特に日本の守備陣は欧州の大柄なFWを相手に激しい戦いを繰り広げなければいけない、その対抗できる選手としてジーコ監督が注目したのが箕輪選手だった。

今シーズンJ1リーグの試合で安定した仕事をしてきた。外国人CFが多い中、特にヘディングでは負けることはなく1対1でも身体の強さを思う存分発揮した。苦手だったスピードとテクニックあるドリブラーに対しては、間合いやポジショニングなどこれまでの経験を生かし、頭を使ったプレーで相手のFWの良さを事前に消すことで、自分のウィークポイントを露呈することがほとんどなくなり安定した守備ができた。

10月6日(木)18時半(現地時間10月6日(木)12時半)、遠征先の箕輪選手から電話があった。いつもと変わらず普通に「タツルさん!元気ですか!」最初の声のトーンと口調から上手くチームの雰囲気に溶け込め、いい感じで日本代表に合流できたことが感じ取れた。話の中で彼が言った言葉は「とにかく楽しい!サッカーをするのが楽しいよ!」これが本音だと思うし、サッカー選手本来、理想の姿なのだろう。「代表に行ってどう?」と聞いてみると「初めてここに来たけど選手たちは、今相手が何を考えているのか感じ取ることができて、他の選手たちに上手く合わせることができるんですよ!今何をしなければいけないか瞬時に判断できるんで、すんなり代表に溶け込めましたよ!だからプレーしやすいしチームの雰囲気がいいんですよね!」という言葉が返ってきた。

海外組だろうと日本組だろうと目的意識がはっきりしていて、日本代表として誇りを持ち、チームとして戦わなければいけないことをしっかりと理解している。技術的な部分で能力が高いことも勿論あるが、その他のプラスαを代表選手たちは持っていると思う。サッカーはいろんな状況がある、メンバー構成、システム、相手もいる、環境など様々なことに対応し瞬時に判断してプレーしなければいけない。90分の中で一人がボールを触っている時間はとても少なく、味方や相手やボールを見て動いている時間のほうがはるかに多い。どんな状況であろうと、その状況をしっかりと把握したうえで上手く適応し能力を発揮することができる選手が、いい選手の条件の一つでもあると、あらためて箕輪選手の言葉から感じることができた。

好調のフロンターレから日本代表選手が選出されたことで、彼を目指し目標とする選手もいるだろう、チームとしていい刺激になり一人一人のレベルアップも図れるかもしれない。箕輪選手の日頃からの努力が報われ、川崎フロンターレにとっていい流れを運び、歴史に残る貴重な存在になった。最後に彼から頼もしい言葉が返ってきた。「やれると思う!こんなこと言ったら浮き足立っていると思われるかもしれないけど、そんなつもりはまったくない。でも代表でもやれると思う!」謙虚さを常に忘れず、どんな相手であろうと問題ないというJで培った実績と経験に裏付けられた大きな自信を感じさせてくれた。

結局、箕輪選手は第2戦、ウクライナとの試合に後半、途中出場した。流石に代表の試合は見ている私たちにも緊張感が伝わってくる。一人少なくしかもアウェイという不利な状況で日本は苦しい戦いを強いられた。途中ゴール前で箕輪選手が相手選手にアンラッキーなPKを与えてしまった場面もあったが、見ている限りでは堂々とプレーしていて存在感があった。力を出せたか?出せなかったのか?代表での手応えを感じることができたのか?それは初代表としてピッチに立った本人しかわからない。

日本は惜しくも破れたが、代表として箕輪選手は東欧遠征で貴重な経験を得た。今後また日本代表に選出されるかはジーコ監督の構想など判断にかかっていてわからないが、今回の選出によって箕輪選手自身、プロサッカー選手として今後、更なる飛躍に繋がっていくことになるだろう。彼ならこの経験を十分活かせるはずだ。これからも注目されることが多いと思うが、残されたJ1リーグ戦に集中し、自信を持って自分のプレーを表現し、チームのため多くのサポーターのために勝利に貢献してほしい。
箕輪選手が川崎に明るい話題を与えてくれたことは言うまでもない。

2005年11月11日

気をとりなおして!

最近Jリーグで、どうも後味の悪い試合が多いと思うのは私だけでしょうか…
先日行われた第29節、浦和レッズvs川崎フロンターレは、両チーム上位に進出するためにも重要な一戦だった。
4位浦和(勝点47)、5位川崎(勝点46)、浦和のホーム埼玉スタジアムには37,593人もの観客がこの好カード、そして選手たちの好プレーを味わおうと楽しみに足を運んだが、そんな注目の一戦を主審の不可解な判定により、見ている多くのサッカーファンをがっかりさせてしまう結果となった。

浦和のこれまでの戦い方を見ても、アグレッシブな内容が予想されていただけに主審のゲームコントロール次第で試合が荒れ面白くなくなってしまう恐れがあったことは確かだが、試合開始直後からイエローカード連発で、両チーム試合のいいリズムや選手の好プレーまでもが消されてしまった。

サッカーというスポーツは人により裁かれ人によりコントロールされるだけに、当然90分間にミスジャッジはあり、それを理解し覚悟した上で選手たちは試合を行う必要はあり、運をも自分たちに引き寄せるくらいの強さがなければ本当に強いチームとは言えないのかもしれない。

しかし、これまで私は現役で長い間プレーし、チームスタッフとしても多くの試合を観てきたが、この日ほど主審の判定に疑問を抱いたことはなかった。けしてフロンターレだけに不利な判定だったとは思わない、浦和にとっても同じことが言えると思うが試合を決める肝心な場面での判定に大きなミスがあり驚かされ理解に苦しんだ。試合終盤では、主審の曖昧な判定に副審が気の毒に思ったのか自ら試合をコントロールする始末だ。終わってみればイエローカード10枚、レッドカード1枚と両チームにとって後味が悪い内容だった。華でなければいけない選手が目立つのではなく一番目立ったのは主審で、この試合のMVPとも思えるほどだった。

この日は民放TVでも全国放送され子供から大人まで多くのサッカーファンが楽しみながらこの試合を観戦していたはず、主審の判定に解説者などからも驚きの声が聞こえるほどで、主審のレベルの低さに不愉快な気持ちになった人もいたことだろう。翌日の新聞には主審に関する多くの記事が掲載されるほどで、それだけ試合への影響力があり責任ある立場であったことをあらためて感じたのではないか。

サッカーは世界一のスポーツで人気があるが、この日の主審のようなゲームコントロールが続いたときには素晴らしいスポーツであるサッカーが壊されそうで恐ろしい、これからサッカー人気が下降しないことを祈りたい。
私が選手の立場を考えると、毎日試合に向け真剣に一生懸命練習に取り組み、それほど長くない選手生活を勝負している選手たちが可愛そうで仕方ない。

そうは言っても、これからもサッカー選手と審判は切っても切り離せない永遠の間柄である。審判のレベルがその国のサッカーを表すとも言われているだけに、共にレベルを上げながら成長していくことが大切である。私たちを含め、Jリーグやクラブが選手に対して、できるだけ倒れず、プレーを止めないプレミアリーグのように、たくましい選手になるよう指導していかなければいけない。Jリーグのように倒れている選手により試合が頻繁に止められ、ボールを返して拍手を貰うこともフェアープレーでいいかもしれないが、転んでも直ぐに立ち上がってボールを追いかけるほうが何倍も見ていて気持ちがいい。子供たちに夢を与える選手たちの役目としても、転んでも立ち上がりプレーを続ける、それが自然にできるようなタフな選手になることが必要だ。

また同時に審判にもしっかりとした指導をしてほしい。どうしたらいいかは具体的にはあげられないが、ピッピッ!ピッピッ!笛を鳴らすのではなく、しっかりゲームをコントロールしているかが重要で、不信感を与えることなく誰からも信頼されるような審判を育成してほしい。セリエAなどで活躍したコリーナという有名な主審がいたが、彼はピッチでとても表情が豊かだ、これは経験ということからも言えるのだが、どんなゲームでも自分ならコントロールができるという自信、選手との信頼関係がしっかりできているからこそ出せるいい表情だ。選手と審判お互いが尊重し合えることが、いいゲームにつながるのかもしれない。

川崎フロンターレは素晴らしいサッカーをしたが浦和に敗れ連勝は途切れてしまった。
「気をとりなおして!」この言葉しか思いあたらない。
私がチェック!した理由「何があっても選手は、黙って次の試合に向け準備をするしかないのだから…」

2006年01月02日

素晴らしいサッカー人生を送るために!

2005年J1リーグも終了し、川崎フロンターレは目標の5位には届かなかったものの8位と大健闘した。これも関塚監督をはじめ選手たちが日々努力し、勝利に向けチーム一丸となって戦った結果である。また多くのサポーターの皆さんがスタジアムに足を運んでくださり選手たちを励まし後押ししてくれたことで力を発揮することができた。いずれにしても今年は特にチームワークが良く、代わって入った選手も活躍するなど、試合に向けいい準備ができ、一戦一戦集中して自分たちの力を出すことができた。

チームには様々な性格やスタイルを持っている個性ある選手が在籍している。日本的な考え方では「誰とでも仲良くしなさい!」と小さな頃から教育されてきたような気がする。しかし、そのような考え方は無責任な感じでもあり精神的にも負担になり、とても難しいことだ。私は「気が合う相手」と「気が合わない相手」は最初から存在するということを理解していた方がいいと思う。

「気が合う相手」とは上手くいくような気がするが「気が合わない相手」とは上手くいかないような気がするのは、自然で普通のことであってサッカーの世界だけでなく会社や学校でもありうることだ。しかし、一つのルールとして捉え、学校に入ったら、またはピッチに入ったら「気が合わない相手」とも協力しなければいけないと個々が切り替えて前向きに考えることができれば気持ちも楽だと思う。

サッカーで、特にチームは勝利という目的がはっきりしているだけに、その中で自分も生きていくためには「気が合わない相手」とも上手くやっていく必要がある。勿論普段からオン・ザ・ピッチでもオフ・ザ・ピッチでも全ての人といい関係が築ければ最高だが、それはなかなか難しいものだ。私はあえて「気が合わない相手」と表現したが、そんな相手と上手くやるということは、自分を変えるのではなく妥協するわけでもなく要領よくいい加減にやるわけでもない。勝利するという目的を達成するために、自分の持っている能力を生かしたいと考えるならば、ピッチに入った瞬間から味方を信頼し協力し合い、味方を上手く使ったり使われたりしながら、お互いの良さを出し合ってプレーしなければならないということだ。ピッチの外までも合わせて上手くやっていけとは言わない。

私は清水に在籍し始めた頃、性格や生活スタイルや年齢差など「気が合わない相手」がいた。オフ・ザ・ピッチでは何かイベントなどがないかぎりチームメイトと過ごす時間は少なかった。清水の選手自体が皆でまとまって何かを行うということが少なかったこともあった。それは静岡県出身者で固められたメンバー構成で高校の先輩後輩などの間柄にあたる選手たちも多く影響していたのか?小さな頃からお互いがライバル同士だったこともあったのか?Jリーグという新たなステージが幕を開け、個々が生き残っていくために意識していたのか?よく言えば仕事とプライベートの区切りをはっきりしたかったともいえる。しかし、そんな関係でもピッチに入った瞬間それらは全く感じさせないほど選手同士の意気はピッタリと合いチームは勝利を重ねていった。サッカーセンスがあり技術の高い選手が集まっていたのかもしれないが「勝利!」という目的がはっきりしていて、スタッフから選手まで全てプロの集団だったことで、今何をしなければいけないのか、最低限お互いを信頼・尊重しないと試合で結果を出すことができず、自分もそこで存在感をアピールすることはできず成長できないことを皆良くわかっていた。監督の考えを理解しどんな選手とでも上手く合わせてやっていける選手がプロフェッショナルであり、一人ではけっしてできないのが11人で行うサッカーであり、そのサッカーに自分の持っている能力や情熱を注ぐことができる人間が結果を残すことができる。そんな「気が合わない相手」とでも向き合い協力し合って目標を達成できたときの喜びはとても大きく、いつの間にか「気が合わない相手」という存在ではなくなっていたことに気づいたりもする。

現在、私は育成部に所属し、少ない時間ではあるが指導にあたっている。昨年のトップチームの活躍を考えると育成に携わる私たちにとって、とてもいい刺激になった一年だった。一人でもいい選手を育てトップチームにつなげJリーグで活躍してほしい思いでいっぱいだ。先日、ある町の指導者と話をしたとき「指導者同士が上手くいってないんだ…」という話を聞き、考えさせられることがあった。指導者は様々な哲学や理論、その人なりの考えを持っているものだ。当然、指導者同士の考えが合わないこともありうる。しかし、そこでお互いが否定ばかりしているのではなく子供たち・選手のことを一番に考えるならば、指導者同士がしっかり向き合い話をし、協力して上手くやっていく努力をしようと思わなければ、まったく先には進まず、いい指導によりいい選手は育たない。どんなレベルであってもサッカーというスポーツをプレーしてきた人で、サッカーを教える立場である人なら、いざ仕事に切り替わったら上手くやらなければいけないことは良く理解できるはず。そんなことに気がつかず子供たちに11人で行うチームスポーツサッカーを教えている指導者が多い。今スタッフでチームを作って試合をしろと言われても到底に無理な話しだ。お互い信頼し尊重し向き合って話し合い協力して上手くやっていく!皆がそんな気持ちになって指導や仕事を行っていければ、もっともっとチームは向上し素晴らしい選手が育っていくことだろう。この先、学校や職場やチームなど「気が合わない相手」はいるかもしれない、しかし、それは普通のこと。相手を否定し逃げるばかりではなく、やらなければいけないときには向き合って一生懸命協力してやろうとする気持ちが普通に出てくれば、どんな場所に行っても目標を達成することは可能で、相手からも信頼され充実した仕事ができるのではないか!私も指導者の一人として、これからも信念を持って携わっていきたいが、指導者などから様々な意見が出されると思う、それはいい選手を育てるためやチームをよくするためのことであって、悪いわけでもなく批判でもなく出てきて当然の話しである。それを、この人は「そういう考えを持っているんだな!」と前向きに捉え、自分の考えと照らし合わせながらいい方向に持っていけるように努力していきたい。
私は、サッカーが好きな限り、何歳になってもサッカーをプレーする気持ちになって何事にも前向きに考えていければ、きっと素晴らしいサッカー人生を送ることができると思う!

2006年は、全世界が注目するサッカーの祭典、ドイツワールドカップを控え、日本代表にとっても10年後のトップ10入りを目指すための挑戦の年であり、また川崎フロンターレにとってもJ1 定着から優勝争いへ向けてスタートの年でもある。私は、どんな時も前を向いていきたい!サッカー界が実りのある一年になるように今から願っている。

2006年03月29日

ヤマザキナビスコカップ!

J1 リーグと並行して行われるもう一つの大会、ヤマザキナビスコカップが開幕した。
ヤマザキナビスコカップは1993年Jリーグ開幕の前哨戦ともいえるもので、1992年からJリーグ参加クラブの全10チームで始まり、サッカー界にとって新しい時代の幕開けとなる記念すべき大会だ。

全てがプロの集団で逃げ道はない世界に飛び込んでいった私にとって、この大会は、プレーヤーとしてこれから生き残っていけるか試される場でもあり、重要な初舞台であった。新しく誕生した清水エスパルス初の公式戦で、チームのほとんどが静岡県出身者で固められていたため、応援してくれる熱い地元サポーターが多く、エスパルスはどんな試合をするのか注目が集まったが、そこは実力者が多く攻撃サッカーは見ている人たちを楽しませた。

当時、人気と実力を兼ね備えたヴェルディ川崎(東京V1969)が常にエスパルスの前に立ちはだかることになる。1992年決勝では、好ゲームを展開したもののヴェルディの壁は厚く、私たちは彼らの前では引き立て役を演じることとなってしまった。

彼らを倒さなければエスパルスは優勝できない時代が始まった。翌年の1993年同大会決勝も再びヴェルディに敗れ準優勝、その頃からエスパルスはシルバーコレクターと呼ばれるようになった。そして1996年同大会決勝、3度目の正直でついに王者ヴェルディを破り念願の初優勝を果たすことができた。エスパルス初、勿論私にとっても初のクラブタイトルだった。

私はこのヤマザキナビスコカップでは、エスパルスで優勝1回、準優勝2回、フロンターレでも2000年に準優勝に輝いたことがあり、とても縁のある思い出深い大会だ。

2005年ヤマザキナビスコカップ開幕戦は「東京V1969 vs 川崎フロンターレ」フロンターレが前半4点リードするものの後半東京Vも4点を返し、開幕戦から予想を反する凄い試合を繰り広げた。

あれからずいぶん年月は経ったが、相変わらず東京Vは私のいるチームにとって楽には勝たせてくれないチームだ!
リーグ戦とは違った雰囲気が味わえ、最後まで目が離せない大会がヤマザキナビスコカップであり、リーグ戦同様ピッチに立つ選手たちに注目してほしい。

2006年04月09日

愉(たの)しんで!

先日、イタリア・トリノで行われた冬季オリンピックでは大会期間中、毎日のように新聞・テレビなどで選手たちの活躍が取り上げられ、私たちの間でも常に話題になり名前が出てくるほど日本人選手への期待は大きいものがあった。

しかし欧州のトリノという離れた地では長野オリンピックのように日本人選手たちの笑顔は少なくいい結果には恵まれなかった。そんな中、日本で唯一メダルを獲得したのが女子フィギュアスケートの荒川静香選手だった。しかも冬季オリンピック・女子フィギュアスケートでは日本人初の金メダルという快挙だった。

私は、彼女が試合後のインタビューの中でコメントした言葉が印象的で忘れられなかった。それは「力まず愉(たの)しんで滑ることができた!」だった。その言葉には選手として、とても自然で忘れてはいけない大切な意味のある言葉のように思えた。

この舞台に立つためには過酷なトレーニングも沢山してきたはず、精神的にも辛かったことは多いはず、しかしオリンピックという大舞台では「力まず愉しんで滑ることができた!」というように自然体で本来あるべき姿で自分を表現した。小さな頃からスケートをやらされて来た人ではこんなコメントは帰ってこないはず、どんな形で初めたとしても、スケートが好きになり滑るのが愉しく、上手になりたい、自分の演技を皆に見て欲しいなど、厳しい中にも自分から学び滑ることで自然に自分を表現し、夢中になって時間を過ごすなど、愉しみ方を知っている人の言葉である。

サッカーのようにカバーしてくれる味方はリンクの上ではいない、個人スポーツという孤独で精神的にも厳しく辛いことも多い中で、たった世界で一人しか選ばれない金メダルを獲得することは並大抵なことではない。何年か前までは「日本のために頑張ります!」「絶対金メダルを取りたいです!」など、コメントを聞いていても4年に1度のオリンピックの重要性や大舞台での緊張感があることは理解できるが、大会を愉しもうという選手は少なかったように思えた。硬くなりプレッシャーになったり、選手によっては自分がいっぱいいっぱいになっていたり、どうしても記録や結果が思うように伸びなかったり出せなかったりするのは、そんな愉しさや少しの遊びといった柔軟な心を忘れてしまっているからかもしれない。

勿論、厳しく精神的にも張り詰めた中で特に世界を相手に日本の代表として戦う選手にとって緊張することは普通のことで緊張感はなくてはならない大切なことでもある、世界はそんなに甘くないこともわかっているが、荒川選手が金メダルを獲得できたのは、表現力やセンス、技術や体力などは勿論のこと張り詰めた緊張やプレッシャーの中で「愉しんで滑ろう!」というスポーツ選手にとって根本的なことを忘れていなかったからではないか、愉しむことで表情も変わり自然に自分の身体を動かすことができ、無心に近い状態から素晴らしいパフォーマンスが生まれたのではないか。今回の冬季オリンピックでスポーツは「愉しむことが必要だ!」ということを金メダリストが教えてくれた。

そして「幸せだった!」とも彼女は言ったように、金メダルが取れたのは、いろんな人の支えがあったからと、感謝の気持ちも忘れていない。両親からしてみれば子供へのサポートは無償の愛であり、自分の好きなことに一生懸命打ち込み、愉しんで滑ったりボールを蹴ったりしている姿を何よりも望んでいることだと思う。

美味しいものを食べたり、高価なものを買ってもらったりすることも幸せなことかもしれないが、夢中でボールを蹴り続け追い続けるように、何事においても思い切り愉しみながらチャレンジし、一つのことに情熱を注ぐことができたことが、人生の中でも一番幸せなことなのかもしれない。

※今回「楽しんで!」をあえて「愉しんで!」にしたのは、楽(らく)とも読めるから。
あくまでも愉快で気持ちよく愉しめたほうがいいと思ったから。


2006年07月07日

マナーはいい選手を創る!

川崎フロンターレにとって、力になれる選手の発掘に向け、高校生や大学生の視察の日々が続いている。高い技術や優れた身体能力など、選手としてパーソナリティがあり、オフ・ザ・ピッチでも一人の社会人として立派に成長できる魅力ある選手を獲得したい。

視察は全国各地域に出向いて行われ、1試合だけのときもあれば2~5試合を一日で視察するときもある。感動させられるような本当に気持ちが伝わってくるプレーは見ていて収穫があり最高だが、何も得られない試合は気分も下がり疲れる。中でも不愉快な気持ちにさせられる試合は選手によるマナーの悪さだ。勿論、試合に出場している全ての選手が悪いわけではない。例えば試合中、主審の判定に対して暴言を吐く選手がいたり、味方選手がミスを犯したことに対して文句や横柄な態度をとる選手がいたり、生徒(高校生)や学生(大学生)らしからぬマナーの悪さが目立つことがよくある。

プロ選手が試合で主審の判定に暴言を吐き捨てイエローカードやレッドカードを貰ってしまうことがよくある。それは一生懸命プレーしているからこそ、強く口に出してしまうこともわからないでもない。主審の判定が自分の思っていたものと異なっていたりもする、明らかに主審のミスジャッジもよくあることだが判定は覆らない、どんな状況になっても選手は自分をコントロールできなければいけない。お金を払って遠くまで観に来ている観客には不愉快な気分にさせてしまい、チームにとっても大きなマイナスになり、全く受け入れられない最悪な行為でしかない。

また、味方がミスをしたことに怒鳴っても関係が悪化し雰囲気は悪くなるばかりだ、直ぐに次のプレーのために切り替えて力を注げるよう声をかけてあげるほうが効果的で、ミスを犯した味方も取り戻そうとやる気になるだろう。高校生や大学生にはマナーも意識せず見ていてかっこ悪く恥ずかしい選手にだけはなってほしくない。

プロになれば試合で自分がしたことに対して自分が責任を取らなければいけない厳しい世界。まだプロでないため許されることは多いかもしれないが、それに甘えてはいけない、上を目指しているのであればサッカーだけ上手くてもだめ、それなりの姿勢でサッカーに集中することだ。
スポーツにもルールがある、サッカーをプレーする上で選手や審判など人を尊重する心を持つことは当然のこと、情熱を注ぐことは大切なことだが注ぐところを間違え主審や味方と戦っていても得るものはない。大観衆には「あのプレーは見ていて気持ちがいいな!来てよかった!」と感動してもらえるようにプレーしたほうがピッチに立った意味があるだろう。

そんなマナーについて興味が沸いた私は、マナーの本を読むことにした。普段からサッカー関連の書籍は読み漁っているが、マナーに関する本を読むのは始めてのことでよくわからなかったので知人に紹介していただき、中でも気になった2冊の本を手に取った。
本を読んでいくうちに著者でもある西出さんは英国に深く関わりがあるということがよくわかった。なんでもサッカーに関連づけてしまう悪い癖がある私だが、今回はまさに共通点があった。サッカー発祥の地は英国で本の題名にもなっていたオックスフォードは英国、英国ではサッカーは紳士のスポーツと言われまさにマナーである。サッカーとマナーは英国で共通点があり、この本がまさにピッタリだった。

そもそもマナーとは、相手の立場に立って行動することで、相手を想うという意識が重要。これまでマナーについて常識的なことなので、あえて時間をかけて深く考えたことがなかったが、こんなにもスポーツや人の成長に大きく関わってくるものだとは正直思わなかった。そしてマナーは自分自身に帰ってくるということ、マナーにより皆が幸せになれることなど、マナーの奥深いところまで西出さんは伝えていた。

サッカーというスポーツで考えてみれば、いつも味方に心のこもった(相手がほしい場所に)正確なパスを出してあげることで、味方はコントロールがしやすく再び自分にも心のこもったいいパスを返してくれる、その結果、自分は貴重なゴールを決めることができる。最初に自分が味方に心のこもったパスを出さなければ味方はコントロールが悪くなり自分には再びいいパスが返ってこなかったはず、パスの質が悪ければ勿論ゴールを決めることは難しく喜びは味わえなかった、というようにマナーとは自分自身だけではなく焦点は相手が必ず関係してくるということ、自分がされて嫌なことは他人にはしないこと、スムーズに物事を進めるために思いやりをもって行動することだ。一方通行ではコミュニケーションもとれず試合は成立しない。またトラブルが起きたら反省する気持ちを持っていなければ、また同じ繰り返しで、いつになっても成長しない。周囲が幸せになるために自分から相手に何かをして、その結果相手がプラスになることで自分の評価や印象がよくなり、思いもよらない喜びや幸せが自分自身に帰って来る。
マナーは常識的なことだが、気がつかなかったり忘れてしまったり、なかなか大人でもできない人もいるが、オフ・ザ・ピッチからマナーを心がけている選手は、自然と試合の中でも様々なことに気がつき自分をコントロールしながらプレーできるはず、人間的にも尊敬され目標とされる魅力あるいい選手になれるだろう。

生徒(高校生)や学生(大学生)は教育を受けている身であり、サッカー選手としてもまだまだ半人前、マナーを心がけて生活しプレーする姿勢が大切である。今思えば私は高校時代、静岡学園高校サッカー部に所属していることにプライドや喜びを感じていた。オフ・ザ・ピッチでもマナーなど常識的なことやルールを理解し、きっちりとした生活を心がけてきた。そうすることは私の性格的なものでもあり、サッカーが上手になりいためにサッカーに費やす時間が多く、他の遊びに興味を示す余裕すらなかったからなのかもしれない・・。逆にオン・ザ・ピッチでは、トレーニングなど厳しいながらも好きなサッカーを伸び伸びと愉しくプレーしてきたことが、後に選手として華やかな世界で長くプレーできたのだと思う。マナーは必ず自分に帰ってくるということ、そしてマナーは、いいサッカー選手を創るということを忘れてはいけない。

サッカーは激しくゴールを奪い合うスポーツだが相手をけなしたり傷つけたりする戦争ではない、そのためにはマナーが存在し、激しく!美しい!サッカーが繰り広げられなければいけない、プレーしている人も見ている人も、皆が愉しんで幸せになったほうがいいのだから。

※参考著書:西出博子 「オックスフォード流 一流になる人のビジネスマナーの本」、「完全ビジネスマナー」

2007年04月20日

原点!

ある本のまえがきに書いてあった文章。
『私は「原点」(starting point)という言葉が好きです。何かをなそうとしている背景には、必ずそれぞれの原点があります。それはいつも、目立たないところで今の自分の足元を支え、見つめるときには再び大きな力となる、そんな不思議な存在です。』

私は自分自身の「原点!」について、いくつか思い浮かべた。サッカーが好きになった頃の「原点!」。それは小学校に入学して間もない頃、実家の裏庭で、当時サッカー少年団でプレーしていた隣のお兄さんたちとボールを蹴って遊んだことだ。見様見真似で蹴りはじめたボールで遊ぶことに、楽しさや喜びを少しずつ感じていった。今思うと狭かった庭も当時の私にとっては十分広いスペース、ゴールは洗濯物を干すための物干竿を固定する左右のポールがゴールだった。GKになってくれたお兄さんを相手にシュートを何度も打った。力の無いシュートはなかなか入らない、しかし何度も繰り返すうちに私がシュートしたボールがポールの間を抜けて行った。それは、私にとって特別な喜びや感動が芽生えた瞬間だった。サッカーの楽しさゴールした嬉しさは計り知れない。サッカーは楽しい!何時間でもボールを蹴り続けたい!(当時、お兄さんは、まともにボールを蹴れない私に、あえてシュートを決めさせてくれたのだろう…)ボールがゴールを抜けていったことが後に自分の人生で大きな意味を持つことになるとは。

「原点!」は人により様々で時間や形も異なる。現在、フロントとしてチーム強化に携わる以上、現役を引退して新しいサッカー人生をスタートしたときの気持ちは忘れたくはない、スーツを着用し満員電車で通勤した1年間は引退した私にとって、また違った、もう一つの「原点!」でもある。それは、いつになっても初心を忘れないためにも1年間自分で決めて続けたことだった。人それぞれ様々な原点がある、その原点を理解しているか?自分が大切にしているものがあるか?自分自身の「原点!」を考えてみて理解しておくことは必要なのではないか。

自分を振り返ることや自分の原点を見つめることができれば、自分は何のためにやっているのか、忘れていたことに気づいたり、間違いに気づいたり、何をしなければいけないか理解でき前に進むことができる、そして再び大きく成長する。苦しいとき、上手くいかないとき、迷っているときに原点を見つめることができれば、何かを感じ取れるはず。それは、自分自身が横道に反れないためにも大切なことで、例え反れたとしても戻ることができる場所でもある。そして目標に向かってチャレンジし努力して、それぞれの新たな原点が芽生えるようになったらこんなに素晴らしいことはないだろう。
原点は目立たないが自分の足元を支え大きな力となることを忘れてはいけない。

あなたの原点は何ですか?

2007年06月20日

センス!SENSE!

最近、Jリーグや高校・大学の試合に限らず、様々なカテゴリーの試合を観るように心がけている。
小学生などのジュニア年代からスーパースターが活躍する海外プレミアリーグまでも、どんなレベルで選手たちがプレーしているのかを把握していたいことや、それぞれのカテゴリーで選手たちが自分自身のプレーにおいてアイデアやパーソナリティなど何か際立っているものや人とは違う感覚を感じさせてくれるか?それぞれのカテゴリーにおいて魅力あるプレーを観てみたい、将来性を感じる選手を観てみたいからだ。これらはスカウトという仕事柄かもしれないが特に最近興味があることで、個性ある選手が出て来てくれることを心から期待している。

指導者は、子供たちがサッカー選手として成長できるよう、日頃から練習方法を考え熱意ある指導を心がけていることもあり、優れた多くのいい選手が育っていることは間違いない。
しかし、同じ指導を受け、同じ練習をしたいい選手たち全てがプロになれるわけではない。いい選手でもプロになれない可能性もある。例えば同じレベルの2人のいい選手がいるとする、同じ筋力があって同じ強さで正確なキックを蹴れる技術を持っていて、同じ柔軟性があり同じドリブルの技術を持っていて、同じ走る速いスピードを持っている、というように2人いい選手がいても、プロになれるかなれないかの明暗が分かれることがある。

それは何かというと、人間性であったり、メンタル面であったり、自己管理であったり、様々な理由が考えられるが、センス(美的感覚・感性…)というものも上のレベルに行くための必要な要素であるかもしれない。一流と言われる選手は誰から見てもセンスが感じられ自分のスタイルを持っている。

センスのいい人は、自分のことをよく知っていて、自分の良さを出し自分に似合うことをする。
例えば服装なら、自分に似合うものを身につけ着こなしていくことで、自分なりのスタイルをつくっていき、他人からもセンスある着こなしと思われるようになる。いくら高価な高品質なブランド品を身にまっとっても自分に似合っていなければ見た目も悪くアンバランスで格好悪い。サッカーでいうと自分の特性を活かすために似合ったプレーを心がけ、試合でチャレンジしていくことで、良さが発揮され身につき、自然と自分なりの似合ったプレースタイルが出来上がる。

実際にセンスといってもセンスは他人によって評価され感じ方は人それぞれ異なり、言い表すことがとても難しいものだ。センス(美的感覚・感性…)は、幼少時代から絵を描いたり、本を読んだり、音楽を聴いたり、物を作ったり、自然を体験したり、旅行や遠征など環境の違う場所に行ってみたり、様々なことを実際に体験・経験してきたことにより、見たものを自分はどう感じたかで感性が磨かれていく。微妙な感覚、物事の感じや味わいなど微妙な点まで悟り、物事を心に深く感じ取り「こうしたい!」などと自分自身が思えることが大切だ。

本当にサッカーが好きかどうか?上手になりたいか?勝ちたいか?でセンスがあると呼ばれる選手になると言っても過言ではない。それには指導者もセンスがなければいけないし、選手の性格や特徴をしっかり見抜いて、活かしてあげられるポジションに配置するなど、特にジュニア年代では形にはめ過ぎず伸び伸びチャレンジさせてあげられる指導が大切になる。
厳しさも時には必要かもしれないが、褒めて褒めて楽しませてあげたい。何よりもサッカーを楽しめなければセンス(美的感覚・感性…)ある選手にはなれない。誰からも「あいつはセンスがいい!」と感じさせられるようなセンスある自分のスタイルを持った選手が出てきて、美しく激しいサッカーを繰り広げてほしい。サッカーを楽しむのは、監督や選手だけではなく観客も楽しむものだから。

2007年08月20日

ライバル!

スポーツに限らず様々な分野でライバル(競争相手・対抗者)というものが存在する。
私はサッカーを通してライバルとして意識した相手がいた中学生頃を思い出した。私の中学生時代は、いい思い出は少なく辛くて悲惨な思い出が多く、できれば多くは語りたくはないが...。

私は青小のエース、青島君は東小のエース、そんな二人が同じ中学校に入学、勿論サッカー部に入部した。小学校低学年からよく試合で対戦し、6年生時には二人ともオール藤枝にも選ばれていただけに、顔見知りでもあり入学してからもお互いに、どちらが早くレギュラーになれるか、背番号も小学校からつけていたものを二人とも獲得、青島君は10番、私は9番(9日が誕生日だから)、いつも刺激しあい練習に励んだ。

2年生になると突然、私だけ左サイドFWで3年生の中にレギュラーとして出場した。自分のプレーが監督に認められ嬉しくて益々やる気が出た。しかし、レギュラーになったことで同級生から僻まれ、関係が難しく。(関係が難しいといっても自分は何もしていないのだが…)その後、私なりに「チームに貢献しないと!」と夢中で試合に出場していたが、3年生の父兄からも「なんであんな小さい選手を使うのか!」などの批判めいた声が監督の下に届いていたそうで、これにより「体格が理由?」ということでレギュラーから外された。
私が初めて味わった挫折、人生のどん底に突き落とされた最悪で辛い出来事だった。それまでサッカーを始めてからというもの順調に駆け上がってきただけにショックは大きい。自分のプレーはダメなのか?小さい選手は試合に出場できないのか?様々なことが頭を駆け巡り、悩んだことも事実、監督に対して不信感を抱いてしまったことも事実だ。

東小のエースだった青島君の活き活きとした表情やプレーが嫌でも目に飛び込んでくる。サッカーが楽しくできない最悪の日々が続いた。しかし、苦しい状況にもかかわらず「サッカー部を辞めたい!サッカーが嫌い!」とは思わなかった。それは誰かにサッカーをやれといわれて始めたわけではなく、自分自身の意思でサッカーが好きになり続けてきたことだ。
サッカーが楽しくて好きで上手くなりたかったから諦めるなんて考えられなかった。自分からサッカーを奪ったら何も残らないことも知っていた。このまま終わることは私の性格上許せなかった。同級生とも、まともな会話もない日々が続いたが平気だった。といっても弱いところを見せたくなかっただけだ。父からは「小柄な選手は人と同じことをしていてもダメだ!」と常に言われ続けていたことも十分理解していただけに、これを機に「皆よりもっと練習して上手くなって絶対に試合に出てやる!」と心の中で思った。(内に秘めた闘志とでもいうのか…)

その後、青島君は順調にレギュラーの座に定着、私は外から試合を眺めている日々が永遠と続いた。青島君には自分には無いものがたくさんあった、スタミナ、キック力、ヘディングの強さ、フィジカルの強さ、激しい闘争心と根性、とてもいい選手だった。
しかし試合に出場している彼と同じものを自分自身に求めることはしたくなかった。いくら彼と同じようなプレーをしても、彼を追い越すことは勿論、追いつくことさえもできないことはわかっていた。いくら彼のプレーを真似してもそれはできない、できたとしても不自然で、それ自体偽物であり本物ではない、向島建のプレーではないからだ。パワーがなくても自分にはスピードと切れのあるドリブルがある、これをもっと上達させ自分の特徴を活かし、自分のスタイルでプレーするしか彼を追い越すことはできない。
その後、同級生ともいつの間にか普段どおりの状態に戻っていたが、3年生になって追い討ちは成長痛のケガで完全にピッチから離れることになった。それから最後までピッチに戻ることはなく、中学生時代を不完全燃焼という想定外で終えることとなった。

卒業後、青島君は地元の藤枝北高校に進学、私もサッカー部監督から青島君と同じ藤枝北高校を薦められていたが反対、父は校長先生に呼び出される始末になったが私の考えを尊重、あえて遠い静岡学園高校を選択しサッカーを続けた。
私は静岡学園高校、井田監督の下で個人技を学びサッカー漬けの生活の甲斐あって2年生の12月には県ジュニア強化メンバーに選ばれ合宿にも参加するまでになった、そこで再び青島君と顔を合わせることになった。久しぶりの再会で自分自身もその場所にいることに喜びを感じた。「彼も頑張っているんだ、俺ももっともっと頑張らないと!」と更に高い意欲で練習に取り組んだことを覚えている。

私にとって彼は本当によきライバルだった。彼はどう思っていたかは知らないが、私には常に彼の存在が前にあった。しかし人間ははかないものだ、年が明けた1月24日(月)悲しい知らせが届いた。青島君の死だった。高校で行われたマラソン大会にトップでゴールした直後亡くなったそうだ。気持ちが強く、根性がありすぎた分頑張りすぎたのだろう。
人が亡くなったところを間近で見たのはこのときが初めて、横になっている彼を見ていると今にも起き上がり走り出しそうな雰囲気さえ感じさせていた。中学3年生では私と彼が副主将を務めたことも思い出す、昔からずっと意識してきた相手が亡くなったことは、とても悲しく辛かった。少なからず彼の存在があったからこそ、ここまで自分を高めることができ強くなれた。このとき、彼の分までサッカーを一生楽しもうと誓った。

人間は挫折して、それを乗り越えてこそ大きく成長できる、挫折が自分を強くさせたことは間違いない。サッカー人生において自分がライバルとして意識できる存在がいたことにとても感謝している。ありがとう青島君!


※参考文献:高校時代のサッカーノート

2007年10月20日

インシャッラー!


今期、川崎フロンターレは初めてAFCチャンピオンズリーグという国際試合を戦った。予選6試合(ホーム&アウェイ)を5勝1分のFグループ1位という素晴らしい成績で通過、Jリーグクラブ至上初の予選突破(はつのり!)を果たした。

ノックアウト方式の決勝トーナメント1回戦では、セパハン(イラン)にアウェイ、ホームともに0-0、延長でも決着がつかずPK戦の末惜しくも敗退した。圧倒的に試合を支配し、得点チャンスもあり期待されていただけに悔しい結果に終わった。

しかし、Jリーグと同時進行する中、アジアや中東でのアウェイなど過酷なスケジュールや環境でも選手たちはよく戦った。この国際試合は川崎フロンターレの選手にとって大きな財産となり、今後彼らがプレーしていく上でこの経験を是非活かしてほしい。

私は、この大会において2月〜9月の間で、6カ国のクラブチームの試合を実際に現地に行って視察した。
2月13日(火)アレマ・マラン視察(インドネシア)。アレマ・マランvsペルセバヤのインドネシアリーグを視察。スラバヤから車で3時間、マランという街がある。標高700m、気温27度、湿度80%、思っていたより過ごしやすい。とはいっても日本とは環境は違い厳しい条件は変わらない。私たちは、視察当日、試合2時間前にスタジアムに到着、至る所に軍隊の姿があり雰囲気は日本とは異なる。スタンドに入ると既にバックスタンドは隙間が無いほど人で埋めつくされていた。平日の15時半キック・オフだというのに超満員(4万人)全てがアレマ・マランのサポーターだった。ガイドの話によると試合当日、ペルセバヤのサポーターは街には入れないらしい。
 インドネシアリーグはサッカー自体とても人気がありプレーは激しい、外国人は5人まで出場でき、技術が高い選手も多く、とにかくよく身体を張って頑張る。そして、何といっても熱狂的なサポーターアレマニア(アレマサポーター)の存在が脅威だ。アレマニは、インドネシア協会からベスト・サポーター賞を受賞している。インドネシアの田舎でサッカーがこれほど盛り上がっていたことは驚きだった。特にアウェイでは、そう簡単には勝たせてもらえない相手だと実感した。今でもサポーターの歌が耳に焼きついて離れない。最初のインドネシアで、いきなり度肝を抜かれた視察だった。

9月6日(木)セパハン視察(イラン)。セパハンvsラーハンのイランリーグを視察した。テヘランから岩山の変わらない風景を観ながら5時間車で走るとようやくイスファハンの街がある。世界遺産でもあるイマーム広場もあり観光など歴史の街としても有名だ。試合前日ホテルで、セパハンの対戦相手ラーハンのコーチングスタッフたちが私たちの下にやって来た。「明日の戦い方を教えてくれ?」と可笑しな相談をしてきたのだ。「私たちは実際に試合を観てないから分からない、逆にセパハンの選手の特徴を教えてもらえないか!それから戦い方を考えよう!」そんな会話から1時間盛り上がった。

翌日、16時キック・オフ、セパハンの選手の特徴をあらかじめラーハンスタッフから聞いていたため、視察はやりやすかった。思っていたほど観客は入っていない、1000人位だろうか、標高が高いためか?キック力があるためか?ボールがよく跳ぶ。技術が高く、体格がよく、もちろん球際は激しく、一人一人が力強いが、攻守のバランスが悪いため早い時間帯から間延びする傾向がある。守備陣に大型選手、攻撃陣にスピードがある選手が揃っているだけに、先制してゴール前を堅め、ボールを奪ったらカウンターという状況になると厄介な相手だ。結局、試合は2-2の引き分け、昨年最下位のラーハンはアウェイで大きな勝ち点1をもぎ取った。ホテルに戻るとラーハンのコーチングスタッフと再びロビーで出くわした「いい試合だった!」と伝えると勝利でもしたかのように興奮気味に試合について解説し始めた。どこの国でも格上の相手にいい試合をすると嬉しいものだ。

9月19日(水)アル・ワハダ(UAE)。ACL決勝トーナメント1回戦、フロンターレが勝ち上がれば、どちらかと対戦することになる。アル・ワハダ(UAE)vsアル・ヒラル(サウジアラビア)夜22時キック・オフ。時差の関係もありセパハン(イラン)vs川崎(日本)の結果は0-0だったと先に知らされての視察だった。ドバイからアブダビまでは車で1時間半。競技場に到着すると、セキュリティチェックを通り一般の観客席へ入った、こちらでは基本的に入場料は無料、女性は入れない。
私たちは視察(ビデオ撮影等)という大事な仕事があるため、場所を探すがメインスタンドは隙間が無く警備が厳しい「日本から来た、川崎フロンターレ」と言っても全く駄目だ。元々視察に来ることをアル・ワハダには伝えていたが返答がないままここまで来た。そこで、知り合いのジャーナリストの森本君がピッチで取材をしていることを確認していたため彼を呼び止め「何とか中に入れないか?」相談した。そこで森本君の究極の案は、カメラマンになればということだった。彼は中東などをよく取材しているため関係者に知り合いが多かった。何としてでも映像を入手しなければいけないため、一か八かその場で申請を出した。日本ではとうてい無理な話であるが、証明写真もその場で撮り、ようやく手作りのパスを受け取りピッチレベルまで入ることができた。
オレンジ色のビブスを渡され、その後は自由に視察を行えた。試合は今まで味わったことのない雰囲気、アラブ独特の応援は異様だった。アル・ワハダ(UAE)は身体能力が高く瞬間的なスピードとパワーがある。一方アル・ヒラル(サウジアラビア)は、個人の技術が高く、2人3人と絡んでくる攻撃やパスワークが素晴らしかった。試合は0-0、ラマダン中でコンディションがよくないのだろうか、足が痙攣する選手も目立ち、終了の笛と同時にピッチに座りこむ選手がほとんどだった。
ラマダン中の選手たちの生活は、午後15時か16時頃起床、日が沈む18時半頃から朝食を摂る。朝食が消化した22時頃から試合や練習が行われ、深夜1時頃に軽く昼食、日が昇る直前に夕食を摂り、6時頃就寝する。当然、日が出ている間は水も飲めないから寝るしかない。
激しい試合はアラブ同士の意地の戦いでもあった。夜22時といってもUEAは暑いため疲労は覚悟のうえだ。世界的に見ても中東での試合は一番過酷といってもいいかもしれない。冗談で「W杯がこの中東で開催されたら中東の国が優勝することもあるかもね!」と話をすると誰もが首を縦に振る。環境は勿論、宗教上とても難しい国が多い、中でもサウジアラビアは宗教的にも最も戒律が厳しい国で、飲酒はできず、男女はっきり分けられ、女性はアバヤという黒い服を着て肌を見せてはいけない。それは外国人でも同じ、とても神経を使う国だ。宗教や環境の違いなどラマダン中の視察は、人生においてなかなか味わえない貴重な経験だった。



世界では、様々なスタイルのサッカーが行われている。今回はアジア・中東など一部の視察ではあったが、実際に現地に行って、その国、その街のサッカーを見ることができた。アラブの国では「インシャッラー(神の思し召しのままに)」という言葉が印象的だった。例えば、水道が壊れて修理の約束をしても「インシャッラー!」だ。約束をしたつもりでも「明日のことは分からない、神が決めたことならそうなるでしょう」や「何が起こっても、神が決めたこと、私の意図したことではない」という結構無責任的な言葉で、様々な約束やトラブルで、この言葉が繰り返される。
結局水道屋は約束の日には現れず、直ったのは3週間も先だったということもよくある。来れなかった理由も、神から与えられたことがあったから仕方なかったと、インシャッラーが立派な言い訳になるのだ。今思えばアル・ワハダの返答がなかったのも、サウジアラビアのホテルでクラブ関係者と待ち合わせしても現れなかったのもインシャッラーというアラブ特有の文化だったのかもしれない。サッカーで考えてみるならインシャッラーというアラブのスタイルで、よく、先のことを予測したりイメージしたりし、11人で協力してゴールを奪うサッカーができるな!と思ってしまうが、そこは「したたかさ!ずる賢さ!」がピッチで大いに発揮されているのではないか。中東視察において特に試合運びや駆け引き的な部分の上手さを痛感した。真面目すぎる日本人には、このインシャッラーは普段の生活からは考えられないが、彼らにとっては当たり前で未来は神の領域でもあるということだ。

今回の視察を通じて国籍は異なるが多くの人々に出会い、サッカーの関わり方や楽しみ方を知ることができた。現役時代、アジア・南米・欧州等の様々な国に出かけて試合を行ってきたが、そんなプレーヤーの感覚とは全く違うものでもあり、自分自身にとって、サッカーというスポーツは勿論、どんな環境であっても、その国や自分のスタイルで人生を一生懸命に生きているということを実感した。
世界には自分が、まだ行ったことも観たこともない、素晴らしいサッカーの世界があるはず。なぜならばサッカーは世界中で行われ、ボール一個で人々を幸せにすることができる世界一のスポーツだから。
皆さんもアラブに行った際は「インシャッラー!」には気をつけて!

※インシャッラー(神の思し召しのままに)

2007年12月21日

仮契約!


2007年12月6日(木)15:00駒澤大学玉川校舎にて菊地光将選手の仮契約が行われた。
大学サッカー界の中でも異例の8チームで争われた注目の菊地選手の争奪戦は、川崎を含め名古屋、磐田の3チームに絞られ、最終的に川崎に入団することが決定した。彼が川崎入りを決めた要因はいくつかあったと思われるが、一番の決めてとなったのは等々力での試合観戦が大きかったようだ。スタジアムを埋め尽くした沢山の青いサポーターたちが作り出した素晴らしいホームの雰囲気が本当に気に入ったのだろう、等々力で思う存分、力を発揮したいと思ったに違いない。

スカウトという仕事に携わるようになってからというもの、オファーを出している選手から「来季からフロンターレでお世話になります!」というありがたいお言葉を頂くと、喜び浮かれている暇はほとんどなく、慌しく日程を調整し仮契約を行い、正式に来期の入団内定まで確実に到達するための作業を行う。

基本的に仮契約の場には私たちスカウトも同席する。高校生、大学生の彼らが華やかながらも厳しいプロの世界に入ってくる記念すべき第一歩の日でもあるため、落ち度がないように入念に準備をする。この日は特に私自身も身が引き締まる思いだ。彼らには期待や不安など様々な思いがあるはずだが、この仮契約の席にはどちらかというと、いい緊張感がある。J1の舞台に向けこれから挑戦していく新たな決意と署名を交わす安堵感からか、とても明るい雰囲気が漂う。
彼らが仮契約書にペンを走らせる姿を見ていると、私はいつも感慨深くなる。この選手たちが試合に出場するのはいつ頃になるのか?フロンターレのユニフォームに身を包み、得意のプレーを披露する姿を想像する。サポーターたちが彼らに対して大きな声援を送ってくれる。将来、チームの中心選手として活躍してほしいと願う。

一方、これから大変な努力や苦労が付きまとうのも事実、高校生には大学という路もあったが、これで本当にプロの世界に入ることになり、もう戻れない。「本当にプロでやっていけるのか?大丈夫だろうか?いややらなければいけない、お前ならできるはず、大きなプレッシャーもかかるかもしれない、ケガなどしなければいいが…」と親のような感覚にさえさせられる。
実際に全ての選手が活躍できる保証もない、それがプロの世界だ。本当にこれからが勝負だ。そんな自分たちがスカウトとして声をかけてきた選手たちの仮契約の光景は、いつになっても忘れることはできないものである。この仮契約が全ての選手にとって人生の中で忘れられない意味のある通過点になってくれれば、こんなに喜ばしいことはない。

仮契約を済ませ、年が明け新たに本契約を交わしたときから、彼らは川崎フロンターレの一員として堂々と練習に励むことができる。いずれきっとピッチで活躍してくれるだろう選手たちの誕生である。1年でも長くフロンターレの選手としてサポーターに愛され、勝利に貢献してくれることを祈る。

 現役引退後の2002年から約5年間、私自身がこれまでサッカーを通して経験し感じてきた様々なことを、この「Tatsuru's チェック!」で書かせていただきました。理解しづらい文章など多々あったかもしれないとは思いますが、それでも本当に多くの方々にご愛読いただきました。そして沢山の温かいご感想もいただけたことは、とても嬉しく思っています。
拙いながらも実際に自分自身の手で書き留めてきたことは本当によかったと、つくづく感じました。本当にありがとうございました。さてこのコラムですが、5年間を一区切りと考え一度リセットさせていただきます。今後は、今年新たにスタートしたオニ、ヤス、タマら若い連中に任せたいと思います。また、いつの日か皆さんのご要望があれば、今度はひょっとしたら「牛若丸 チェック?」という形ででも、自分自身が新たに感じたことを伝えられる日が来るかもしれません。その際は「Tatsuru'sチェック!」同様、温かい視点でお目通しいただければ幸いです。
これにからもスカウトとして皆さんに自信をもってご紹介できる選手を探しに全国を走り回ります。今後とも宜しくお願いいたします。
そして、未来ある選手たちにご声援を!

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